稲本潤一が20年前の日本代表メンバーを回想。バチバチのライバル関係や中村俊輔の落選など、どう感じていたのか
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」稲本潤一インタビュー(前編)
【日韓W杯を振り返る】吠える鈴木隆行、指差す稲本潤一、バットマン宮本恒靖、ゴールを喜ぶ中田英寿と森島寛晃…20年前の感動が蘇る!
今から20年前に開催された日韓ワールドカップ。日本中に熱狂をもたらしたフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表のなかでも、ひと際輝きを放ったのは稲本潤一だ。
当時22歳のワンダーボーイは、ベルギー戦で逆転ゴール、ロシア戦では決勝ゴールを奪い、日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。
あれから20年の月日のなかで、すでにあの大会、あのゴールについては語り尽くされた感もある。しかし、節目の20年目に稲本に話を聞かないわけにはいかないだろう。
そこで今回は角度を変え、自らのことではなく、当時の代表メンバーとの関係性と、知られざるエピソードを語ってもらった。
※ ※ ※ ※ ※ –
— 日韓ワールドカップの23人のメンバーが発表された時は、どういう心境でしたか?
「メンバー発表の時はアーセナルにいたので、直接見たわけではないです。誰かから聞いたんだとは思いますけど、落ちるイメージはなかったですね。ただ(中村)俊輔(横浜F・マリノス/当時、以下同)が入らなったり、高原(直泰/ジュビロ磐田)が病気(エコノミークラス症候群)になったり、いろんなことがあったので、驚きは多少ありました。
特に俊輔が入らなかったのはびっくりしましたね。トップ下でやりたかったでしょうけど、ヒデさん(中田英寿/パルマ)という絶対的な存在がいましたから。トルシエ監督は左サイドで考えていたとは思いますけど、(小野)伸二(フェイエノールト)と俊輔で最後まで悩んだんだろうなと思います。僕自身はふたりとも入ると思っていたので、驚きはありましたね」
—- その一方で、中山雅史選手(磐田)と秋田豊選手(鹿島アントラーズ)が選出されるサプライズもありました。
「中山さんも秋田さんも、最初の頃はトルシエジャパンに入ってましたよね。だからサプライズというわけでもないと思いますけど、年齢的なバランスを考慮したんだろうなとは感じました。ふたりとも前回のワールドカップを経験していましたし、チームを盛り上げたり、士気を高めるという意味でも、ふたりの存在はすごく大きかったと思います」
—- では、ここからはポジションごとに当時のチームメイトについての印象を聞いていきます。
「全員ですか? それはきついな(笑)」
—- ですよね(笑)。では、試合に出た選手を中心に聞いていきます。まずはGKですが、あのチームには川口能活選手(ポーツマス)と楢﨑正剛選手(名古屋グランパスエイト)という、ふたりのハイレベルな争いがありました。
「そうですね。バチバチのライバル関係がありましたからね。どちらかというと能活さんのほうが意識している感じはあったのかなと。ふたりがいい関係を保ちながら、日本のGKのレベルを上げていっているなというのは、チームのなかでも感じていました。
ふたりとも年齢は近いですし、フランス大会から南アフリカ大会まで、10年以上もライバル関係が続いていったわけで、あのふたりの存在は当時のチームだけでなく、日本サッカー界にとっても大きかったと思います」
—- 日韓大会では、楢﨑選手が守護神の座を射止めました。
「トルシエ監督がどういう基準で選んだのかはわからないですけど、ナラさんは大会を通じてすごくいいパフォーマンスをしていましたし、安心感がすごくありました。フラット3の選手たちも含め、うしろが安定していたおかげで、ボランチの僕は積極的に前に行くことができました」
—- その「フラット3」は、当時のチームのキーワードでしたが。うしろ3枚がフラットで守るというやり方は、ボランチの選手としてはどんな感じだったのでしょうか。
「今でこそ当たり前になってはいますけど、当時はリベロがいて、ひとり余る形が主流でしたからね。それをフラットにして、ラインを上下させていくやり方は日本ではなかったスタイルだったので、斬新でしたよ。
それがトルシエ監督の戦術の肝なので、すごく練習をしましたし、要求も相当高かったのを覚えています。それこそ上下の動き方の練習は、ホテルの大部屋でもやったくらいですから。フラット3の選手だけの時もありましたし、11人でやったこともありました。ボールのない状態で、とにかく連動して動くということをひたすらやっていましたね」
— フラット3は左から中田浩二選手(鹿島)、森岡隆三選手(清水エスパルス)、松田直樹選手(横浜FM)という並びでしたが、ベルギー戦で森岡選手が負傷し、以降は宮本恒靖選手(ガンバ大阪)が真ん中に入ることになりました。
「浩二に関しては、彼自身チームではボランチをやっていましたし、左利きのCBというのも貴重だったので、ポゼッションやボールをつなぐところでは重要な役割を担っていましたね。僕自身は右に行ったり、左に行ったりしていましたけど、左に行った時の連係やコミュニケーションは、スムーズにできていたとは思います」
—- 右の松田選手に関しては?
「マツくんはすごく能力が高かったですし、守備の強さだけでなく、前への持ち上がりにも特長があったので、ボランチを組んでいた戸田(和幸/清水)さんと一緒に、マツくんが出ていったところをカバーするということを意識していました」
—- トルシエ監督とやり合っていた印象も強いですが。
「気が強いですからね(笑)。でも、結局は選ばれるし、レギュラーの座をモノにしたわけで、トルシエ監督の信頼感は大きかったと思います」
—- 真ん中の森岡選手はキャプテンという立場でもありましたが、ベルギー戦で負傷交代した影響はあったのでしょうか。
「あのシステムでは真ん中の選手が重要ですし、隆三さんはシドニー五輪も含めそれまでずっとやってきていた選手だったので、交代してしまった直後は多少混乱があったと思います。実際に同点に追いつかれてしまったわけですしね。
ただ、ツネさんもしっかりとカバーしてくれましたし、僕自身はガンバでも一緒にやっていたので、そんなに違和感はなかったです。ツネさんは鼻を折っていたので不安もあったかもしれないですけど、残りの試合ではそれを感じさせないプレーを見せてくれたので、さすがだなと思いましたよ」 –
— ボランチのパートナーを組んだ戸田選手の存在も、稲本選手にとって大きかったのでは?
「うしろのことは任せておけ、という感じだったので、すごくやりやすかったですね。戸田さんとしては、特に守備の部分でもっとこう動いてほしいというのはあったのかもしれないですけど、そういう要求もあまりなく、運動量とバランスで僕の分までカバーしてくれていたので、本当に助かりました」
—- 何か具体的に言われていたことはあったのですか?
「『自由にやって大丈夫』みたいなことを言われていたと思います。もちろん僕も勝手に動いていたわけではなく、戸田さんの動きを見ながらプレーをしていましたけど、行けるタイミングでは迷わず行くことができた。それは戸田さんのカバーリング能力だったり、バランス感覚があったからできたことだと思っています」
—- ロシア戦の決勝ゴールは、FWのようなポジション取りでしたよね。
「そうですね。なぜそこにいる? というくらい、前に行っていましたから(笑)。戸田さんもそうですし、トップ下のヒデさんも僕の動きを見ながら、リスク管理のポジションを取ってくれていたおかげだと思います」
—- ちなみに、戸田選手は髪を赤く染めあげていたことでも注目されましたね。
「あれにはやられましたね(笑)。あの大会ではみんな目立ちたいから、茶髪とか金髪とかに染めてましたから。まあ、僕もそのひとりですけど。逆に黒のほうが目立ったかもしれないですね。そのなかで真っ赤に染めてきたのは、さすがだなと(笑)」
>>稲本潤一(後編)につづく>>中田英寿との関係性や「ピカイチ」と絶賛した選手との連係
【profile】稲本潤一(いなもと・じゅんいち)1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌→SC相模原を経て、2022年より関東サッカーリーグ1部・南葛SCに所属する。日本代表として2000年から2010年まで82試合に出場。ポジション=MF。181cm、77kg。