「裸の会合」でトルシエ戦術を改良 宮本恒靖が証言、日韓W杯“初勝利”を導いた決断
「日韓W杯、20年後のレガシー」#25 宮本恒靖の回顧録・第2回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
フィリップ・トルシエ監督が率いた当時の日本代表を象徴する言葉の1つが、「フラットスリー」だろう。3人のDFをフラットに並べ、最終ラインを高く押し上げながらオフサイドトラップを仕掛ける戦術は世界的にも珍しかったが、日韓W杯でそのコントロールを託されたのが、初戦のベルギー戦で緊急出場することになった宮本恒靖だった。鼻骨骨折のためにフェイスガードを装着し、「バットマン」と呼ばれて人気を博した男は、重圧のかかる本大会でどのように守備陣を統率したのか。当時のエピソードを交えながら振り返る。
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日韓W杯グループリーグ初戦のベルギー戦は、2-2のドローに終わった。稲本潤一の逆転弾で2-1と一時は勝ち越した日本だったが、宮本恒靖が途中交代で入った4分後、オフサイドトラップを破られて失点した。
試合翌日のミーティングでは、フィリップ・トルシエが失点シーンのビデオを見せ、烈火の如く怒っていた。
「それは、覚えています。1点目、相手にオーバーヘッドされて決められたけど、その時に『なぜ寄せなかったんだ』と市川(大祐)が名指しで怒られていた。2点目の失点は(楢﨑)正剛が『なぜパンチングで逃げた』とトルシエにしつこく問われていたけど、最終ラインの3人に対しては強い口調で言ってくる感じはなかった。たぶん、怒っていたのは、トルシエ流の発奮のさせ方で、『次は勝ち点3を獲るぞ』とチームに気合を入れるためのミーティングだったかなと思います」
1時間半近くに及ぶミーティングが終わり、その夜、宮本たちは露天風呂に入りながら裸のミーティングを催した。
「ベルギー戦の2点目を取られたシーンを振り返ると、失点のリスクを避けるために場合によってはラインを深くするというか、もう少し懐を広くしてもいいかなと思うけど、どう思う?」
守備陣で「多少の余裕を持って下がる」ことを確認
宮本の問いかけに“フラットスリー”を組む松田直樹、中田浩二に加え、GKの楢﨑も加わって話し合いが進んだ。
「話をしていくと、『自分は、そうは思わない』ではなく、前々からみんな、そう思っていたことを確認できた。ギリギリで下げるんじゃなくて、多少の余裕を持って下がることで、よりセーフティに相手に対応できるというイメージを共有できた。だから次の日、フィールドで練習した時に、すぐに実現できた。フラットスリーのベースは変わらないけど、相手や状況に応じて変えていく戦術になった」
宮本は、フラットスリーに特別な思いを抱いていた。
「トルシエの初陣になったエジプト戦を長居(スタジアム)に見に行ったんです。井原(正巳)さんが3枚の真ん中をやっていて試合のMVPになったんですけど、その時、フラットスリーは面白そうだなと思いました。その秋に五輪代表の合宿に呼ばれた時、A代表と同じ戦術でやると聞いてすごく楽しみだったし、実際にやってみると面白かった。トルシエも真ん中の候補として自分のことを『いいな』と評価してくれていたんで、やり甲斐もありました」
練習ではフラットスリーの3人を含めて全体で相手がボールを上げれば、ラインを下げ、相手がボールを下げるとラインを上げる。その練習を毎回、繰り返し、呼吸を合わせて揃って動けるレベルにまで達した。また、攻撃ではFWからのプレッシングを徹底し、奪ってショートカウンターでゴールに迫った。そのスタイルは、今の森保一監督の日本代表の戦術にも似ている。
「今の代表のスタイルを見ると2002年から20年経過して、自分たちがやっていたものに近いところも見られます。サッカーの傾向は回帰するんだなと感じます」
裸での本音トークで「フラットスリー」の改良に着手した宮本は、やり方の変更について、ボランチの稲本潤一と戸田和幸にも話をした。
「ボランチのコンビは、本当に頼もしかった。戸田はファイターで、相手にガッツリ行ってくれるし、イナは低い位置から前に出ていくという良さがベルギー戦に出た。それぞれの良さに加え、(ボランチの)頭の上をボールが越えていくと自陣に素早く戻ってきてくれたし、セカンドボールも拾ってくれた。それがすべて上手くいったのが、ロシア戦だったと思います」
試合後に握りしめた血の付いたタオル「勝つために必死だった」
日韓W杯2戦目のロシア戦は、グループリーグ突破のためには絶対に勝たなければいけない試合だった。そのために、フラットスリーにメスを入れたが、試合では特に不安を感じなかったという。
「ラインの上下のズレとかは問題なく、危ないということもなかった。そこのミスを突かれる怖さよりも相手のスルーパスやマイナスのクロスを入れられるほうが嫌だった。ロシアがもっと日本を分析して、やり方を考えてくるチームなら、また違う展開になったのかもしれないけど、幸い正攻法で来てくれたので、自分たちが有利に戦えました」
7メートルほどラインを下げて宮本たちは対応したが、トルシエは低いラインが我慢ならず、ベンチから何度も「上げろ」と声を荒げていた。
「ベンチでもハーフタイムにもラインを上げろって言われたけど、勝つためには怒鳴られてもいい。自分たちが思うようにやろうと決めていました」
ロシアの攻撃を封じ込めてきた日本に、「サッカーの神様」は微笑んだ。後半6分、稲本が2試合連続ゴールを決め、先制したのだ。
その後はロシアの猛攻を浴び、体を張った守備の時間が長く続いた。日本は1-0で勝ち、W杯史上初勝利を挙げた。試合後、宮本は血の付いたタオルを握りしめてミックスゾーンに現れた。
「ロシアの攻撃で何回もバーンと当たられたけど、そんなの気にせずやっていました。プレーしている時は痛いとか、あまり感じなかったし、とにかく勝つために必死だった。終わってタオルで顔拭いたら血が出ていたことに気付いたという感じだったけど、本当に勝てて良かった」
続くチュニジア戦にも日本は勝利し、グループリーグを2勝1分の首位で突破した。 最終ラインを統率し、ロシア戦で失点ゼロに抑えて勝利に導いた「バットマン」は、歴史的な白星とともに世界に配信され、国内メディアは連日、その姿を報道した。
宮本は一躍、「時の人」になった。
■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto
1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。