稲本潤一が振り返る日韓W杯のチーム内事情。中田英寿との関係性や「ピカイチ」と絶賛した選手との連係
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」稲本潤一インタビュー(後編)
【日韓W杯を振り返る】吠える鈴木隆行、指差す稲本潤一、バットマン宮本恒靖、ゴールを喜ぶ中田英寿と森島寛晃…20年前の感動が蘇る!
2002年の日韓ワールドカップ、稲本潤一はトルシエジャパンの敷く3-5-2システムにおいて、攻守のカギを握るボランチを務めた。
ピッチ上で助け合った当時の日本代表メンバーたちを、当時22歳の稲本はどう見ていたのか。インタビュー前編ではゴールキーパー、「フラット3」を支えたディフェンダー、ボランチたちの話を聞いた。
後編では豪華な中盤やフォワード陣、さらには20年前の自身についても振り返ってもらった。そして最後、強烈なインパクトを放ったフィリップ・トルシエ監督への思いとは……。
>>稲本潤一(前編)はこちら>>バチバチのライバル関係や中村俊輔の落選など、どう感じていたのか
※ ※ ※ ※ ※
—- 日韓ワールドカップで稲本選手は戸田和幸選手(清水エスパルス/当時、以下同)とボランチを組んでいましたが、同じポジションには福西崇史選手(ジュビロ磐田)もいました。
「フクさんも相当、能力が高かったですね。なぜ僕が(先発で)出られたのかわからないくらい、力のある選手でした。僕と代わることが多かったですけど、途中から入っても素晴らしいプレーを見せてくれていたので、交代してもしょうがないくらいの気持ちでしたよ」
—- 中盤には小野伸二選手(フェイエノールト)、小笠原満男選手(鹿島アントラーズ)と、ふたりの黄金世代のメンバーがいました。
「満男はヒデさん(中田英寿/パルマ)とポジションが被るところもあって、出番は限られましたけど、負けている状態であればボランチを1枚削って、ヒデさんと満男が並んだこともあったと思います。
ワールドカップではチュニジア戦の最後に少し出ただけでしたけど、ヒデさんと能力の差はなかったと思っています。陰に隠れがちですけど、もっと試合に出てもおかしくなかったと思いますね」
—- トルシエ監督に怒られていたイメージが強いですが。
「ユース代表の頃はそんな感じでしたけど、2002年の時はそこまででもなかったかな。言われるだけじゃなくて、満男も言い返すようにもなっていたし、監督からもイチ選手として見られていたと思います」
—- 小野選手に関しては?
「伸二はフェイエノールトでは真ん中のポジションで結果を出していたので、3-5-2の左のワイドをやる難しさを感じていただろうし、葛藤もあったと思います。ただ、本音はわからないですけど、不満も見せず、そこでどうやって自分を出そうかという努力をしていたと思います。
ワイドの場合は守備のタスクも求められますけど、うしろの(中田)浩二(鹿島)としっかりとコミュニケーションを取りながら、ディフェンスでも貢献していましたしね。
そのなかで、やっぱり伸二が持つとタメができるし、攻撃の起点にもなっていた。ベルギー戦の同点ゴールも伸二のパスからですからね。左でも結果を出せるのが、伸二のすごさだと思います」
—- 逆に右サイドには、明神智和選手(柏レイソル)が君臨しました。トルシエ監督も「明神が8人いれば」と相当信頼を置いていました。
「もう、堅実としか言えないですよね。右サイドもできるし、中でもプレーできる。言われたことを確実にこなす安定感があったので、監督としては使いやすい選手だったと思います。右サイドは不慣れだったと思いますけど、そこでも自分の力を発揮できるのは、やっぱりすごいことだと思います」
—- そしてトルシエジャパンの象徴だったのが中田英寿選手です。”孤高のイメージ”が強いですが、実際にチーム内ではどういった存在でしたか?
「メディアから伝わるイメージとは、かなりギャップがあると思いますよ。僕は年下なので、ヒデさんから話しかけてくれることはあまりなかったですけど、同い年のツネさんなり、マツくん(松田直樹/横浜F・マリノス)なり、フクさんなんかとは、かなりしゃべっていた記憶があります。
もちろん、僕らから行けば普通に話してくれましたし、さすがにイジることまではできなかったですけど、たしか『ワールドカップが終わったらどこかに連れて行ってくださいよ』とお願いしたような……。実際に連れて行ってくれたかは覚えてないですけど(笑)、僕ら世代からすれば”よき兄貴分”的な存在でしたよ」
—- プレーヤーとしてはどう感じていましたか。
「当時はイタリアでバリバリやってましたからね。何よりプレーが力強かったですし、一番頼りになる存在だったと思います。たとえ劣勢でもヒデさんがボールを持てば、何かしてくれるだろうという感じはありましたね」
—- FWに目を向けると、柳沢敦選手(鹿島)は稲本選手にとってのベストパートナーと言える存在でした。
「ヤナギさんとのコンビで、けっこう点を取りましたね。ワールドカップの2得点もヤナギさんのアシストですから。動き出しのタイミングがいいので、僕もパスを出しやすかったですし、逆にパスを返してくれるタイミングも抜群にうまかった。
本当に周りをよく見ているんですよ。味方の位置と相手の位置を見極めて、絶妙なところに走り出す。その位置取りとタイミングが完璧で、自分が点を獲るだけじゃなく、周りを生かすプレーもピカイチでしたね」
—- ベルギー戦の”つま先ゴール”で脚光を浴びた鈴木隆行選手(鹿島)については?
「隆行さんはガツガツというプレースタイルで、とにかく闘ってくれる選手でしたね。身体を張ってキープしてくれるので、僕も前に行きやすかったですよ。
ベルギー戦の前まではなかなか点が獲れていなかったけど、あの場面で点を獲れたのは、大舞台でも揺らぐことのない闘争心だったり、気持ちの強さがあったからだと思います」
—- フィリップ・トルシエ監督についても聞かせてください。稲本選手のキャリアのなかでも、かなりインパクトのあった監督だと思いますが。
「過去の代表を振り返っても、3世代の監督を同時に務めたのはトルシエさんしかいないと思いますが、僕はそのすべてに入らせてもらいました。トルシエさんじゃなかったら、もしかしたら代表に入っていなかったかもしれないですし、2002年のワールドカップの舞台に立てなかった可能性もあります。
ワールドカップの最後の2試合で前半で代えられたのも、今となっては自分の力のなさだと思っています。当時は思ってなかったですけど(笑)。そこでの悔しさが、その後に自分成長するための糧になったと思うので、やっぱり感謝の想いしかないですね」
—- では最後に、2002年の稲本潤一はどんな選手でしたか?
「アーセナルで試合に出られなかった悔しさを世界にぶつけたい気持ちがすごく強かったですし、チームというよりも個人にフォーカスした大会でした。若かったこともあってほとんど勢いだけでやっていましたし、周りを見ずに何度も前に上がって行きましたが、そのなかで2点を獲ることができた。
もちろん、僕のゴールは周りのフォローがなければ生まれなかったと思うし、とにかくチームメイトに助けられた大会でした。もっと上に行けたという想いもありますけど、振り返ればやっぱり楽しかったですし、すごく感謝の多い大会だったと思います」
—- 日韓大会から20年が経った今年、カタール大会が開催されます。今の日本代表にどういったことを期待していますか。
「グループがグループなので、世界の人たちから見たら日本は厳しいと思われているでしょう。でも、逆にチャンスだと思うんですよね。スペイン、ドイツという世界のトップクラスの相手と試合ができるのは、選手の立場からすればうらやましいことですし、そこで結果を出すことができれば、世界に強烈なインパクトを与えられますから。
その状況をぜひ楽しんでもらいたいですし、世界のトップを相手にも戦えることを見せてほしい。そのうえでベスト16の壁を越えて、ベスト8まで行ってくれたら最高ですね」
【profile】稲本潤一(いなもと・じゅんいち)1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌→SC相模原を経て、2022年より関東サッカーリーグ1部・南葛SCに所属する。日本代表として2000年から2010年まで82試合に出場。ポジション=MF。181cm、77kg。