「そりゃ中村敬斗だしな…」指導者が予言していたW杯での活躍…“少年時代の中村敬斗”いったい何がすごかった?「“育てた”なんて全く思わないです」
北中米W杯のオランダ戦でゴールを決め、一躍注目を集める中村敬斗(25歳)。日本代表の“新エース”として期待がかかる中村は、少年時代、いったいどんなプレーヤーだったのか。「多くの子どもを見てきたけど、彼は別格」。約半世紀にわたって指導の現場に携わり、幾人もの代表クラスの選手を見届けてきた野寄順三氏(81歳)に話を聞いた。(全2回の2回目/文中敬称略)
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なぜ、多くの原石が集まるクラブに?
明神智和、阿部勇樹、細谷真大、大橋祐紀――。数々のプロサッカー選手や日本代表を送り出してきた81歳の指導者・野寄順三が「後にも先にも見たことがない」と評する存在。それが中村敬斗だった。
では野寄の目に、中村の何がそこまで特別に映ったのか。その答えを探るためには、まずは野寄自身の歩みから振り返る必要がある。
野寄がサッカーの指導者として活動を始めたのは20代前半だった。当時、ピアノの調律師として東京で働き始めた野寄は、週末になると地元の静岡へと戻り、街クラブでプレーしつつ子どもたちにサッカーを教える生活を送っていた。
その後、30代で千葉県柏市へと移り住んだ野寄は、地域の子どもたちを集めて少年団を立ち上げ、本格的に育成の道へと足を踏み入れる。そんななかで出会ったのが、ブラジルから来日していたセルジオ越後だった。ストリートサッカーをルーツとした11人制にこだわらないセルジオの考え方に大きな影響を受け、野寄は自作のミニゴールを使った普及活動にのめり込んでいった。
「セルジオさんに意識を変えられたんです。『サッカーなんてゴールがなくても、どこでもできるじゃん』って。それなら人数が少なくても、少しのスペースしかなくても、幼稚園児にだってサッカーができるんじゃないか、ってね」
1970年代に野寄が始めた幼稚園でのサッカースクールは口コミで千葉県内に広がり、最盛期には約2500人もの子どもたちが参加する一大組織へと成長を遂げることになる。1982年にイーグルス・ユナイテッド・FC TOR’82として法人化され、トップチームからジュニアまでを擁するクラブとなり、さらに柏レイソルとの業務提携を経て、2012年に柏レイソルA.A.TOR’82(以下、トーア)にクラブ名称が変更された。
それだけ多くの子どもたちの指導にかかわったのは、やはり才能ある選手を発掘するためだったのだろうか。疑問をぶつけると、野寄は「そうじゃないんです」と首を振った。
「上手な子がいると、どうしてもその子だけにボールが集まっちゃうでしょ? だからうまい子、中くらいの子、そうじゃない子を分けて、リーグ戦を作ったんです。そうしたらみんなが主役になるチャンスができるし、サッカーを好きになってくれるじゃないですか。もちろん親御さんも喜ぶ。そうやって多くの人にサッカーを好きになってもらうことが、結果的に日本のサッカー文化を育てることにつながると思っていたんですよ」
エリート育成のためではなく、誰もがサッカーを楽しめる場所を用意する。その哲学を貫き、多くの子どもたちに門戸を開き続けた結果として、中村敬斗のような「別格の才能」もまた、自然とトーアに引き寄せられていったのだ。
「“育てた”なんて全く思わないです」
約半世紀にわたる指導歴のなかで、野寄の考え方は一貫している。現代の育成現場ではポジショニングやプレーの判断基準などについてもジュニア年代から細かく教えるケースが多いというが、トーアの育成方針は違った。
「低学年のうちは、あまり教えないですね。ボールタッチとかキックの基本はやりますけど、そこからは放っておく。すると、自分で考えるようになるんです。どんなフェイントが効くのか、どうすれば抜けるのか。それを大人が先回りして教えてしまうと、子どもたちは自分で考えることをしなくなってしまう。そうすると楽しさもなくなっちゃいます」
パスによるポゼッションを基調としたレイソルの哲学が合わずに去った中村だったが、トーアではドリブルもシュートも許されていた。むしろ、野寄の自由な育成論のなかで輝く才能こそが、中村だったのだ。
「彼にかぎらず、他の選手たちも僕が何かを教えたわけじゃない。本当に勝手に伸びていっただけ。“育てた”なんて全く思わないです」
子どもたちの自主性を大切にし、教えすぎないことを美徳とする野寄だが、じつは幼少期のうちに、ある「感覚」だけは仕込んでいた。
それがリズム感だ。
トーアの低学年の練習終わりには、少し変わった光景が見られる。子どもたちが一列に並び、独特な手拍子のリズムに合わせて、みんなで歌って練習を締める習慣があるのだ。ピアノの調律師だけあって音楽への造詣が深く、自身もバンド活動をしていた野寄は、スポーツにおける「リズム」の重要性を強調する。
「練習の後にみんなで歌ったりリズムを取ったりするのは、一種の『音感教育』なんですよ。リズム感というのは、人間の成長において6歳から8歳くらいの間にベースが身につくんです。だからうちの練習では、ブラジル体操やいろいろな音楽のリズムを意識的に取り入れています」
体と足でリズムを刻み、ステップを踏みながらボールを扱うセンス――野寄によると、この運動の神経回路は12歳ごろまでにほぼ完成してしまうものだという。この調律師の感覚こそが、中村の才能に強く惹かれた理由でもあった。
「敬斗はもともと体の使い方に独特なリズムを持っていた。だからリフティングも簡単にできちゃうし、相手の裏をつけるんですよ。三笘(薫)選手なんかもそうですよね」
中村敬斗にとって重要だった「個の尊重」
リズム感を身体に染み込ませ、低学年のうちはとにかく自由にボールと遊ばせる。それが野寄の基本スタンスだが、単なる放任主義というわけではない。むしろ、子どもの成長曲線に合わせて指導者の役割はガラリと変わるという。
「僕はね、14歳が一番大事だと思っています。小学校高学年から中学生にかけて、子どもたちの心と体は大きく変わり始める。サッカーとの向き合い方に悩んだり、サッカー以外のことも目に入ってくる。精神的に壁にぶつかる時期なんです。だから、そこは指導者がちゃんと見てあげなきゃいけない」
小学6年時に柏レイソルのアカデミーを離れた中村は、中学時代を三菱養和SCで過ごすことになる。個人を尊重し、それぞれの特性に合った成長をサポートする同クラブは、学校の部活ともプロの下部組織とも異なり、野寄の哲学とも共鳴する独自の育成文化を持つ場所だった。14歳という多感な時期に「大人の型にはめられない環境」を与えられたことは、中村にとっても幸福なことだったに違いない。
周囲から自分のスタイルを否定されることなく、自由に牙を研ぎ続けた中村は、高校2年生でガンバ大阪と契約を結び、一気に世界へと羽ばたいていった。
「ただただ、最初から全く違った。それだけなんです」
オランダ戦の前に行ったインタビューの最後に、あらためて日本代表の主軸を担う中村にどんな期待をかけているのかを野寄に尋ねた。81歳の名伯楽は、少しも迷うことなく言い切った。
「最初にも言ったけど、彼がどれだけ活躍しても驚かない。例えばW杯で得点王になっても、MVPになっても、『そりゃ中村敬斗だしな』って思います」
細かく分析すれば、優れた要素はいくらでも挙げられるはずだ。しかし、笑みを浮かべながら語るその言葉には、理屈を超えた説得力があった。半世紀にわたり日本の草の根からサッカーを見つめ続けてきた指導者が出した答えは、あっけないほどシンプルだった。
「よく『敬斗の何がそんなにすごかったんですか』って聞かれるんだけど、そんなの『違った』としか言いようがないんですよ。いろんな子どもを見てきたけれど、あの子に関してはただただ、最初から全く違った。それだけなんです」



