釜本邦茂さんを五輪得点王に育てた川淵三郎氏らの〝強化策〟「腹いっぱい食べさせよう」

【取材の裏側 現場ノート】1968年メキシコ五輪のサッカーで得点王(7得点)となり、アジア勢初となる銅メダル獲得に貢献した元日本代表FW釜本邦茂さんが死去した。81歳だった。

【写真】日米親善サッカーで戦った釜本邦茂氏とペレ氏(1976年)

日本リーグ時代に251試合202得点をマークし、日本代表としては国際Aマッチ76試合75得点を決めるなど、突出した存在だった。引退後はG大阪の監督を務め、2002年日韓W杯に向けては強化推進本部長としてフィリップ・トルシエ監督率いるチームの強化に尽力する一方、参議院議員としても活動するなど各方面で活躍した。

そんなストライカーが「世界のカマモト」と呼ばれるようになったのは諸先輩方のおかげでもあった。川淵三郎氏は日本サッカー協会の会長時代に「釜本は体もあったし、スピードもあって、ものが違っていた。大学生ながら日本代表になったが、みんなが将来はすごいストライカーになると思っていた」という。

川淵氏ら早稲田大OBをはじめ「丸の内御三家」(日立製作所、古河電工、三菱重工)と呼ばれる企業に所属するサッカー関係者が、釜本さんを成長させることが日本の強化につながるとして支援を開始した。川淵氏は「仲間内で釜本を支えようという話になった。大学生だった釜本を練習終わりに(丸の内周辺に)呼び出して順番でメシを食わせる。まずは釜本に腹いっぱい食べさせようってね」と明かした。

川淵氏は「もともと才能はあったし、しっかりと食事を取らせることで体もできてきた。俺だけじゃないけど、仲間内で陰ながら、そういうこともやっていたんだ」。もちろん、食事をする場では諸先輩方から国際舞台で戦った経験や日の丸を背負う覚悟なども語られることで、釜本さんは心身ともにレベルアップ。メキシコ五輪での快挙につながった。

世界にその名が知られるようになった釜本さんにはメキシコ五輪後、イタリアや南米からオファーが届くも、直後に体調を崩してしまったため移籍は実現しなかった。93年にプロサッカーのJリーグが発足し、多くの選手が海を渡ったが「日本サッカー界の最高傑作」は今でも釜本さんなのかもしれない。(運動部・三浦憲太郎)

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