「“黄金世代”って呼ばれたけど、ほんまにそうだったのかな」稲本潤一が引退後初めて語った仲間の絆…「今も家族ぐるみで」付き合うあの選手とは
「黄金世代と呼ばれるのは、イヤな感じはしなかったです」
稲本潤一は、控えめな声でそう語る。
1979年生まれが中心になる稲本たちの世代は、ワールドユースで準優勝を果たし、日韓W杯、ドイツW杯にも多くの選手が出場。まだ海外でのプレーが難しかった時代に海を渡った。日本サッカー界を支え、そのレベルを押し上げ、空前のサッカーブームを生んだ世代であり、その貢献度と実績、タレント性から彼らは「黄金世代」と称された。
ワイワイとサッカーを楽しんでいたあの頃
だが、彼らが最初に顔を合わせた頃は、そんな未来を予感させるような雰囲気はなかった。
「伸二(小野)やタカ(高原直泰)、満男(小笠原)とは、U17の世界大会で一緒だったけど、その頃は俺らの世代でやっていこうぜとか、俺らは特別やなとか、そんな風には全然思っていなかったです」
1995年、稲本はU17日本代表に選出され、U17世界選手権エクアドル大会を戦った。この時のチームメイトである小野、高原、小笠原、酒井友之、辻本茂輝らは4年後のワールドユースナイジェリア大会で準優勝を果たすことになるが、この頃はまだワイワイしながらサッカーを楽しむような雰囲気だった。だが、高校を卒業してプロに入ると世代の空気が一変した。
「その当時は、高校からプロに入る選手が今に比べて圧倒的に多かった。例えば、鹿島には高卒で満男とか浩二(中田)とか、6人ぐらい入ったけど、高卒でそれだけ入るのって今じゃ考えられへんからね。しかも、試合に出ている選手が多かったので、お互いのことをわりと意識していたと思います」
小野伸二の衝撃
稲本がプロデビューを果たしたのは1997年、17歳の時だが、小野たちがプロ入りしたのは1998年である。ちょうどフランスW杯が開催された年で、選手もファンも世界に目が向き始めた時代だった。その時、稲本ら同世代に強烈なインパクトを残したのが、小野のフランスW杯出場だった。
「日本が初めてW杯に出場することになり、俺らの世代も世界に目が向き始めたんですけど、伸二が代表に入ってW杯に出たことがすごく大きかった。代表や世界との距離がグッと近くなった気がしたし、俺らの世代に『次(のW杯に)は自分たちが出る』と思わせてくれるキッカケを作ってくれた」
「黄金世代」の誕生
その翌年、1999年のワールドユースに出場するU20日本代表に選ばれたのが、稲本を始め、小野、高原、小笠原、中田浩二、遠藤保仁、本山雅志ら“黄金世代”と呼ばれることになる選手たちである。彼らはグループステージをトップで通過すると、つづく決勝トーナメントではポルトガル、メキシコ、ウルグアイら難敵を退け、決勝に進出した。決勝戦、スペインには0‐4で敗れたが、準優勝という結果を残した。
「負けたけど、スペインとしっかりと向き合えたのは、良かったと思います。優勝していたら、海外に行きたいという気持ちが芽生えたかどうか分からないし、あそこでこてんぱんにやられたことで目が覚めた。
俺らの世代はJリーグで試合に出て、勢いもあったけど、世界のトップとはまだ距離があるなっていうのを感じ取れたし、この差を埋めるには日本にいたら無理だなって思った。この経験が俺らを黄金世代と呼ばれるところに押し上げてくれたのかなと思います」
11分で交代の屈辱
ただ、稲本自身はこの大会の直前に怪我をしており、出場機会にも恵まれず、ほろ苦い経験になった。とりわけ厳しさを感じたのは、準決勝ウルグアイ戦でのシーンだった。後半開始に遠藤に代わって出場するも、11分で石川竜也と交代させられたのだ。屈辱的な11分に稲本の表情は凍り付いていた。
「あんなんないですよ(苦笑)。怪我明けだけど、後半頭から出して10分ちょっとで普通は代えないですよ。20分ぐらいは見るでしょ。だって、ここからエンジンがかかって良くなっていくかもしれないじゃないですか。
でも、バッサリいかれたんで逆に、トルシエってこういう決断をできるんや、すごい、と思った。やられた自分は、落ち込みましたけどね。でも、これもいい経験だった。その後のサッカー人生で、こういうことはもうなかったんで(笑)」
稲本は、それでも大会は楽しかったという。ナイジェリアという異国で1カ月近く寝食をともにし、戦ったことで、世代の絆が深まった。シドニー五輪に向けて宮本恒靖らワールドユースマレーシア大会組と一緒になっても、存在感はナイジェリア組の方があった。
「俺らは、技術とかで負けていない自信がありましたし、代表に入ったら年齢も関係ないと思っていたので、遠慮することもなかった。試合に出る出ないを決めるのは監督だけど、それでも出ている選手には絶対に負けていない、という思いで俺らの世代はやっていたと思います」
「別格」だった中田英寿
ただ、稲本が唯一、別格の存在だと感じていた選手がいた。それが中田英寿だった。
「ヒデさんは五輪の最終予選の時に来たけど、もう雰囲気とか近寄り難くて、プレーのレベルも違った。同じピッチに立って感じたのは、競り合いの強さもそうだけど、個の強さ。それはちょっと伸二のうまさとかとは違う種類のものだけど、自分にはなかったもので、このレベルにいかないと世界では戦えないと思いました。でも、そこからですね。どうしたら世界に出られるのか、いろいろ探りを入れ始めた」
2002年W杯へ
シドニー五輪を終え、選手の視線は2002年日韓W杯を戦う日本代表にシフトしていった。ボランチの候補選手は複数いたが、稲本が自分に言い聞かせていたことがあった。
「この頃は、ほんまに自分のプレーを思い切り出すことと、自分の得意なプレーをどこまで伸ばせるのかということしか考えていなかった。ボランチでゲームを作ることはできなかったけど、ボールを狩るプレーとか前に行くタイミング、スピードは自分の持ち味で、そのプレーで上のレベルに行きたいと思っていました。それがプレミアリーグでプレーすることに繋がったし、W杯のゴールにも繋がっていったんです」
稲本はトルシエの信頼を得て日本代表の主力となり、同世代からも小野、中田浩、小笠原、曽ヶ端準が日韓W杯を戦う代表メンバーに入った。そしてベルギー戦で2点目のゴール、ロシア戦では決勝ゴールを挙げた稲本は、世界的なブレイクを果たした。
ドイツW杯の惨敗と黄金世代の蹉跌
つづく06年のドイツW杯を戦う日本代表は、黄金世代が軸になった。稲本を始め、小野、高原、中田浩、小笠原、加地亮、遠藤、坪井慶介の8名が入り、一大勢力になった。人気、実力ともに史上最高と言われ、ファンは日韓W杯以上の大会になるだろうと期待した。だが、試合に主力として出場したのは加地だけでほとんどがベンチを温め、チームも1分2敗でグループリーグを突破できずに終わった。
「02年は伸二とか俺らの世代が数名いてベスト16まで行ったけど、ほんまの意味で力を試されたのがドイツW杯だった。でも、俺らの世代があれだけメンバーに入っていたのに結果を出せなかった。
北京五輪でも日本は勝てなかったけど、南アフリカW杯では(本田)圭佑や長友(佑都)が活躍しているじゃないですか。俺らの世代は、若い時に活躍しただけみたいな感じやなと思いましたね。もちろん、あれだけ代表に入った世代ということですごいと言われるのは嫌な感じはしないんですけど……正直、“黄金世代”と呼ばれたけど、ほんまにそうだったのか、捉えどころが難しいです」
ワールドユース準優勝の記録は……
ただ、若い時の結果だとしても、男子日本代表の全カテゴリーにおいて、FIFAの公式世界大会での準優勝という結果は、99年以来これまで破られていない。
「いまだにナイジェリアのワールドユースの準優勝の記録が破られていないのは、問題といえば問題ですよね。これだけ日本サッカーのレベルが上がり、日本の選手がたくさん海外に行っているからね。でも、必ず超える世代が出てきますよ。その時には、日本サッカーが違う景色を見られるのかなと思います」
昨年12月に引退した稲本だが、前年の2023年には黄金世代の小野、遠藤、高原、南雄太らが次々に現役を引退していた。
「みんな、なかなか試合に絡めていない状況だったんで、どうすんのかなぁって思っていました。タカ以外はJ1、J2でプレーしていたので、そこからカテゴリーを下げてもやるのかどうかを考えると、それはたぶんないだろうなと。だとしたら、そろそろ(引退)かなぁっていう思いで見ていました。
みんな息が長い選手になったけど、俺らの世代は、お互いを刺激し合ういい関係やったと思います。満男がドイツW杯終わってからイタリアに行ったじゃないですか。若い時の満男を見ていたら、イタリアに行くとか考えられなかった。浩二もそうだし、みんな高みを目指して切磋琢磨していたと思います」
引退しても黄金世代の絆は変わらない
黄金世代の関係は、今も継続している。
誰かの誕生日には、グループLINEに「おめでとう」とメッセージを送る。稲本自身が引退を決めた際も、やめる旨をLINEで伝えた。現役時代から仲が良かった中田浩とは、今も家族ぐるみの付き合いをしている。
「引退しても特に関係は変わらない。みんな、それぞれの道でお互いに刺激し合いながらやっていくんかなと思います」
99年から続く黄金世代の太い絆。その輝きはこれからも色褪せない。
〈全3回の1回目/つづきを読む〉