湯が出ないシャワー、着替えは屋外「これはプロといえるのか」稲本潤一、引退前の6年間…「今後の指導者人生のために凄く良かった」
2024年12月、スパイクを脱いだ「最後の黄金世代」稲本潤一。日本サッカー界に大きな影響を与え、あらゆるサッカーファンの心に残り続けるだろう大功労者が、波乱万丈のサッカー人生を引退後初めて語った。黄金世代、日本代表、家族の支え……秘話満載、NumberWebでしか読めない独占インタビュー! 〈全3回の3回目/1回目から読む〉
【写真】「わ、若い…! でも変わってない(笑)」ヤンチャそうな17歳の稲本、02年W杯の伝説的名場面の稲本やワールドユースでの若き黄金世代の面々を全部見る
28年の長い現役生活の中で、稲本潤一は12チームでプレーした。ガンバ大阪から始まり、アーセナルFCなど海外の強豪クラブ、そして関東サッカーリーグ1部の南葛SCまで、いろんな世界、カテゴリーのチームに所属した。
最も印象深いのは意外なクラブ
その中で一番印象に残っているチームは、どこになるのだろうか。
「ガラタサライかな」
稲本は、06年から1年間だけ在籍したトルコのクラブ名を挙げた。
「そこで自分のプレースタイルがちょっと変わって、それがその後に活きたんで。それまでプレミアでプレーしていて、前に積極的にボールを獲りにいくプレーをしていたけど、ガラタサライではアンカーになって、うしろでがっちり構えてプレーするようになったんです。
みんなが上がっていくんで、自分も行くと真ん中がすっぽりと空いてしまうから、そこで構えてボールを奪い、前に繋ぐというプレーに慣れていった。自分のプレースタイルを貫いていたら、どうなったかなぁというのはあるけど、そういうプレーが評価されて、翌年フランクフルトに行くことになった。自分のプレースタイルが変わったという点ですごく印象に残っていますね」
日本復帰からの立場の変化
トルコでプレーした後には、ドイツ、フランス、そして日本に戻って川崎や札幌でプレーした。移籍を重ねても、新しいチームに加入する際には転校生のようにドキドキしたりするものなのだろうか。
「欧州で新しいチームに入った時は、言葉のこともあるんで最初は少し緊張するけど、ボールを蹴っていれば慣れてくる。日本に帰国してからは、逆にW杯のイメージや自分のキャリアを見て、周囲の選手が一歩引いて見ているのは感じました」
それでも、稲本が醸し出す柔和な雰囲気のせいだろう、ボールを蹴ると人が寄って来て、若手には「イナさん」と慕われた。海外での経験やW杯について聞いてくる選手もいた。
私生活での転機
2010年、レンヌから川崎に移籍して国内復帰した稲本は、キャリアの中盤とともに人生の大きな転機も迎えた。友人の紹介で知り合った田中美保さんと、2012年12月に自身のSNSで結婚を報告したのだ。
「結婚する前には一緒に住んでいたんですけど、何の違和感もなく、普通に生活出来ていましたし、彼女の将来を考えて責任を果たすことも大事だなと思って、結婚に至ったという感じです。サッカーの相談もしていました。川崎が契約満了になって『次、札幌に行くけど』、という話をしたら『いいよ』と二つ返事でついてきてくれた。仕事があるのに、それを犠牲にしてきてくれたので、うれしかったですね」
夫人のサポートのありがたさ
2019年に第一子が生まれたが、稲本は当時所属していた相模原の練習場まで都内の自宅から通っていた。そのために長時間家を空けることが多く、シーズンに入ると土日は試合や遠征でいない。美保さんの負担は増えていった。
「子どもが出来てからの方がサポートが大変だったと思いますし、今もですが、ほんまにようやってくれていると思います。子どもが生まれてからは、父親がサッカー選手というのを認識してもらえるまではやりたいと思っていました。ただのおじさんじゃないというのは、YouTubeとか見れば分かると思うんですけど、試合にも呼んでました。やっぱり生で試合を見てもらうのは違うし、そういう記憶が残っていてくれたらいいなぁと思ったので」
稲本ジュニアの未来は?
二人の子どもに恵まれ、現在では5歳と3歳になった。上の子はサッカーが好きだという。
「今のところサッカーが楽しいみたいだけど、走るのも好きみたいなんで、自分の好きなことをやってほしいなと思います。ただ、サッカーをやるとなれば、年齢を重ねていくと周囲からいろいろ言われることもあると思う。それは稲本家に生まれた以上、背負っていかないといけないもの。稲本という名前がサッカーを続けていく上で、足枷になる可能性もあるけど、それはしょうがないんでね」
引退の決断は、昨年夏ごろ美保さんに伝えた。
引退で感傷的になることもなかった
「ここ数年は毎年、やめるかどうかみたいな話をしていたので、夏ごろに『やめる』という話をした時も、そんなに驚くような感じじゃなかった。(関東サッカーリーグという)このカテゴリーで、試合に対して自分の存在の影響力が明らかになくなってきていたんで、もうええかなと。二人で食事した際、『お疲れさま』という言葉をもらいましたし、子どもたちからは引退会見の後、ケーキをもらいました。
J1で試合に出ていて、いざ引退となれば、多少ウルウルした気持ちになったかもしれないけど、このカテゴリーで試合にもほとんど出ていなかったんで、そこで感傷的になることもなかった。気持ち良く、スッキリやめられました」
稲本は清々しい表情で、そう言った。
キャリア後半で受けた衝撃
今振り返れば、どのチームで過ごした時間が自分自身のサッカー人生に影響を与えたのだろうか。
「相模原と南葛での6年間がすごかったなぁと思います」
すごかったというのは、どういう意味なのだろうか。
「自分のプロサッカー選手としての価値を問われるというか、どう振舞っていけばいいのか。これが果たしてプロと言えるのか、自問自答しながらやっていた6年間だった」
コンサドーレ札幌からJ3のSC相模原に移籍したのは2019年。それから3年間プレーし、2022年に南葛SCに移籍した。当時の相模原は練習場を転々として、クラブハウスもなかった。南葛でも、公園内の人工芝コートで練習し、その場で着替えて帰宅するような日々だった。
「求められているチームでお金をもらってプレーするのがプロ、という捉え方があるけど、例えば環境面で、クラブハウスがなくて、お湯の出ないシャワーを浴びて、外で着替えて帰る、というのはプロなのか。自分はここでしか評価されていないと考えて、割り切ってやっていたけど、それでもプロというものの捉え方については考えさせられました」
知らなかった価値観に触れて
しかしそれは、貴重な経験ができた6年間でもあった。とりわけ、南葛SCにはクラブの運営会社の社員として仕事を持ちながらプレーしている選手もおり、サッカーとの向き合い方を見て、感じることが多かった。
「南葛では、そこでしか出会わない人に出会えたり、違う価値観に触れられたり、“生きる力”みたいものをすごく感じることができた。大卒で入って、3年やってダメならどうするんだろうって思うけど、それでも上を目指したいという選手が入ってくるんですよ。実際、そういうことが可能なんでね。
たとえば長倉(幹樹)は東京ユナイテッドにいたけど、その時から点を獲って目立っていたので、『なんでここにいるんやろ』って思っていたら、新潟に行って、今年レッズに移籍した。関東リーグでも見てくれる人は見てくれるんで、そういうチャンスがあるし、夢があるところでもある」
様々な人との出会い
ただ、当然厳しい面もある。関東リーグでプレーする選手の多くは、社会人や学生を兼ねている。プロ契約できるのは、ほんのわずかだ。サッカーだけでは生活していけない不安定な立場でプレーしている者も多い。
「関東リーグのチームで契約が満了するのは、Jリーグでクビになるのとはわけが違うんですよ。この先、どうやって生きていくかなと思うんですけど、みんな、それぞれの道を進んでいく。家族が増えて、このまま続けていっていいのか、と考えてやめていく人もいて。
やっぱり社会人でサッカーをやっている人は、サッカーだけじゃなく、いろいろと考えていることが多い。そういう人を含めていろんな人に出会えたのは、今後、自分が指導者として生きていく意味でもすごく良かった」
指導者を選んだ理由
稲本はそうした経験を得て、引退後、指導者の道を歩むことを決めた。これだけの実績があり、明るいキャラクター。解説者やタレントなどでの活躍も十分可能だったろうが、あえて指導者の道を選んだのはなぜだったのか。
「指導者は、札幌時代にB級のライセンスを取っていた時に考えるようになりました。現場にいて、試合に勝つか負けるかが決まる瞬間に湧きあがる感情はすごく刺激的で、楽しかった。それはJリーグも関東リーグも一緒だったので、そういう現場に常にいたいということで指導者になりたいと思ったんです。いろんな難しさがあるけど、解説とか、サッカー教室をやるよりは、指導者の道の方が自分には合っていると思っています」
育成コーチ、そしてトップを目指して
そして昨年12月、稲本は川崎フロンターレの育成部コーチに就任した。
「育成なので、選手がどう成長していくのか、というところにフォーカスしていくことになります。その子が求めるものを、より高い次元に持っていけるような指導者になれたらいいかなと。大事なのは、その子がなりたいものになれる手助けをすることだと思うし、そのなかで日本だけじゃなく世界に通用するプレイヤーに育っていってくれるといいかなと思います」
育成コーチをスタートとして、今後は経験を積みトップの監督を目指していくことになる。“稲本監督”が誕生した時、ファンは輝かしい選手時代の稲本をイメージし、監督・稲本にも同じ輝きを求めていくだろう。稲本という名前に注がれる視線は、他の監督よりも厳しいものになるかもしれない。だが、長きにわたるキャリアで真摯にサッカーと向き合い続けてきた稲本なら、そんな宿命も受け止めて、再び何かをやってくれるはずだ。