元G大阪助っ人が振り返るJリーグ草創期 発展に疑心暗鬼も感銘を受けた日本人の国民性「すぐに分かった」【インタビュー】
イタリアの名門からJ創設直後の日本へ 「30年で進化した」
2023年はJリーグが創設して30年の節目の年だった。ヴィッセル神戸が初優勝を果たし、新たな歴史を刻んだシーズン。そのなかでこのほど、ガンバ大阪のレジェンド助っ人で元ソ連代表MFセルゲイ・アレイニコフ氏が来日して「FOOTBALL ZONE」の単独インタビューに応じた。今回は、創設当初にやってきたJリーグで過ごした日々を振り返った。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小杉舞/全2回の2回目)
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「当時、日本はプロサッカーリーグは始まったばっかりだった。そのときはやっぱり日本のプロサッカーどんなものになるのかすごく興味を持っていて、それで日本に来た。正直、日本に来たときは、この国のプロサッカーは本当に上に上がっていくのか、信じられなかった。だけど、当時のイメージと、(現在は)日本はこうやって短い30年のサッカー人生だけですごく上に上がっている。とてもびっくりしている」
アレイニコフ氏が日本にやってきたのはJ創設年の1993年。イタリア1部レッチェでの契約が切れ、G大阪に移籍。1年目は15試合に出場、翌94年は32試合に出場して6ゴールを挙げた。95年も36試合8得点、通算83試合14ゴールという成績でチームの発展に貢献した。
かつてソ連代表として1986年メキシコ・ワールドカップ(W杯)と90年イタリアW杯に2度出場。1988年のEURO(欧州選手権)では快進撃でチームの中心として準優勝に導いた。その活躍もあり、翌1989年にイタリアの名門ユベントスからオファーを受け、旧ソ連で史上初の海外移籍を実現させた。その後、レッチェを経て93年途中からG大阪へ入団した。現在、イタリアでは育成年代を指導しているアレイニコフ氏。UEFA Proライセンスを持つマエストロは日本で指導者の道も模索しているという。「第2の故郷」と話す日本ではどのようなイメージを持っていたのか。
イタリアのトップ・オブ・トップでプレーしてきたアレイニコフ氏にとっては「レベルはそんなに高くなかった」というが「ガンバのみんなには『もっと勉強したい』『プロとして上達したい』という気持ちがあった」と、Jリーグ時代を振り返る。
「初めて日本に来てすぐに分かった。みんながすごく尊敬を持って話しかけてくれる。規律が正しくて文化も素晴らしい。日本食もおいしいしね。お寿司が一番好きなんです。でも当時は食事方法もあまりよくなかったかな。スポーツ選手向けではなくて普通の食事で少し重かった。それが最初にも話したけど、30年で本当に進化した。W杯で期待できるほどに」
そんなG大阪時代に1人の同僚との出会いがあった。現在ウクライナサッカー協会の副会長を務めるオレグ・プロタソフ氏だ。94~95年に在籍していたプロタソフ氏の母国は2022年からロシアによる侵攻を受けている。元同僚として心配は絶えないという。
「当時、旧ソ連代表でチームメートだった選手にはウクライナ代表の選手も多かった。プロタソフさん以外にも親交の厚い選手がいた。みんなのことを心配しています。ロシアのウクライナ侵攻は当初からイタリアメディアのインタビューでも戦争反対とロシアの方針を批判してきた。この戦争には絶対反対です」
語気を強めたアレイニコフ氏。多くの国でさまざまな経験をしてきたからこそ、サッカーを通して平和への思いを主張した。人生において歴史の節目を目撃してきたアレイニコフ氏は、これからの未来の発展も切実に願っていた。
[プロフィール]
セルゲイ・アレイニコフ/1961年11月7日生まれ、ミンスク出身。1981年にディナモ・ミンスクでキャリアをスタートさせ、1989-90シーズンよりユベントス。レッチェを経て、93年途中からG大阪でプレー。Jリーグ通算83試合14得点。その後スウェーデンやイタリアでも活躍した。旧ソ連代表としてW杯に2度出場。ベラルーシ代表の経験もある。Jリーグでは歴史上唯一のベラルーシ出身選手。