開幕で大ブーム「ビスマルクのお祈りポーズ」実は日本でやり始めた?「カズはよく僕の家で寝てた(笑)」53歳の今、明かすウラ話
Jリーグ創成期の名ブラジル人ビスマルクに、誰もがマネした「お祈りポーズ」誕生秘話やブラジル代表で日本代表と対戦した頃の記憶などを幅広く聞いた。(全3回/#1、#3につづく)
【レア画像】ビスマルク53歳ポッチャリしたけど「お祈りポーズ」やってくれた!超高層ビルに住む今やJ時代の華麗なプレー、飛行機男トニーニョに怒りのドゥンガらブラジル名選手写真を見る(60枚超)
20歳にして1990年ワールドカップ(W杯)に招集されたフットボール王国の逸材が、23歳で迎えた1993年の夏、Jリーグが開幕して間もない日本へ渡った。このことは、日本のフットボール関係者以上に、母国ブラジルのフットボール関係者、メディアとファンを驚かせた。
実はセルタに移籍するはずだったが…
――1993年7月、ヴェルディ川崎へ移籍したわけですが、その前に別のクラブからもオファーがあったそうですね。
「1991年にバスコダガマ(以下、バスコ)の首脳陣との間で軋轢があり、別のクラブへ移るべき時期だと考えていたところ、セルタ(スペイン)とサンパウロFCからオファーがあった。
セルタは、現地まで行ってスタジアムやクラブの施設を視察した。バスコとセルタが移籍金額で合意し、僕とも条件面で折り合った。ところが、契約書にサインする段階になって、先方が『年俸として提示した金額は税別と伝えていたが、税込みにしてくれないか』と言い出した。所得税は50%だったから、手取りが半額になる。金額もさることながら、不信感を抱いた。
一方、サンパウロFCは名将テレ・サンターナ(注:1982年と1986年のW杯でセレソンの監督を務め、1992年と93年、サンパウロFCを率いてクラブ世界一)が指揮する強力なチームだった。しかし、クラブの首脳が『お金を貸与するから、パス(所有権)を自分でバスコから買い取り、それを我々へ転売する形で移籍してくれ』と言われた。そうすれば移籍金を低くできる、という計算だった。でも、僕は8歳のときからずっとバスコにいた人間だ。首脳陣と軋轢があったとはいえ、そんな姑息なやり方で退団したくなかった」
君は真面目で几帳面だから、日本での生活がきっと合う
――ヴェルディからは、どのような形でオファーを受けたのですか?
「この年の6月頃、ヴェルディのフィジカルコーチを務めていたルイス・フラビオから電話がかかってきて、『チームには、君のようにリズムを変えられる選手が必要なんだ』、『君は真面目で几帳面だから、日本での生活がきっと合う』と誘われた。
彼のことは良く知っており、信頼していた。また、セルタとサンパウロFCへの移籍に暗雲が垂れ込めたこともあって『日本へ渡ってヴェルディでプレーすることは、神様の思し召しなのではないか』と考えた。
でも、僕は1994年のW杯に出場して優勝したかった(注:実際に、セレソンはこの大会で優勝する)。そのためには、遅くても1994年の前半はブラジルのクラブでプレーしないと招集が難しくなる。だから、ヴェルディへの移籍期間を(1993年7月から1994年1月までの)7カ月間としてもらった」
――ヴェルディについては、どんなことを聞いていましたか?
「『監督は日本人(注:松木安太郎)だが、チームスタッフにはブラジル人が多い。ペレイラ、ラモス(瑠偉)らブラジル生まれの選手、カズ(三浦知良)のようにブラジルでプレーしていた選手がおり、Jリーグで最もブラジル的なプレーをするチーム』と聞いていた」
日本の試合を見て「僕には同じことができない」と思った
――日本と日本人についてのイメージは?
「日本は技術が進んだ先進国で、日本人は真面目で働き者、というイメージ。主な宗教は仏教と神道で、キリスト教徒は多くないと聞いていた。
僕の家族は代々、キリスト教福音派の信者で、僕も日曜日は必ず教会へ行ってミサにあずかっていた。だから、『日本人にイエス・キリストのことをもっと知ってもらいたい』という気持ちもあった」
――宣教師のようですね。
「まあ、それほど大げさなものじゃないけどね」
――日本へ着いて、実際にヴェルディの試合を見た感想は?
「7月中旬(注:19日)、東京へ到着し、その夜にアストンビラ(イングランド)との親善試合を観戦した。
ヴェルディの選手たちは、技術がしっかりしていて、スピードもある。何より驚かされたのは、その運動量だった。90分間、誰もが走り回る。ブラジルとは、プレーのリズムとスタイルがまるで違う。『僕には、同じことはとてもできない。契約をキャンセルしてブラジルへ帰ろう』と思った。
ところが、フィジカルコーチのルイス・フラビオは『大丈夫だ。15日で、君のコンディションをJリーグ仕様に仕上げるから』と言うんだ。そして、その通りになった。コンディションを整えて7月末、セカンドステージの2試合目から試合に出始めた。チームのプレースタイルにも、すぐに馴染んだ」
――ヴェルディでは、カズと再会します。
「ブラジル時代はウイングだったけど、日本ではストライカーに変貌していた。とても成長していて、チームのエース。『僕の手助けが必要なら、何でも言ってくれ』と申し出てくれて、とても有難かった」
――当時のヴェルディを取り巻く雰囲気をどう感じていましたか?
「リーグ随一の人気チームで、選手たちはまるでロックスター。女性ファンが多かった。ブラジルの観衆は大半が男で、殺伐とした雰囲気なんだけど、日本のスタジアムには家族連れや女性が多い。ブラジルとは全く違っていた」
「お祈りポーズ」が生まれた瞬間とは
――7月31日ガンバ大阪戦でデビューし、チームの勝利に貢献。次節で鹿島を倒すと、8月7日のジェフ市原戦で移籍後初ゴール。このとき、以後、あなたのトレードマークとなる「お祈りポーズ」を披露したのですね。
「僕が出場し始めてから2連勝していたんだけど、この試合ではジェフに先制された。でも追いついて、終盤に僕が逆転のゴールを決めた。『これで勝てる』と思い、とても嬉しかった。そして『これほど素晴らしい国、素晴らしいリーグ、素晴らしいクラブでプレーできて、僕は本当に幸せだ。神様のお導きで日本へ来ることになって、本当に良かった』と思った。すると、気が付いたら跪き、あのポーズ(注:両方の眉の間を右手の指でつまむ)をしていた。それまで一度もやっておらず、自然に出たポーズだった」
――それでは、実は「お祈り」ではなく「神への感謝」のポーズなんですね。
「ああ、そこは少し誤解があったようだね。このポーズには大きな反響があった。大勢のファン、特に子供たちが真似をしてくれたのが嬉しかった。僕が神様を信じ、いつも神様と共にいることを理解してくれたんじゃないかな。これは、日本へ来る前からの僕の願いでもあったからね」
カズは僕の家のソファや床で寝ていることが(笑)
――生活面では、すぐに順応できましたか?
「母が同行してくれていて、練習場があった読売ランドの近くのアパートに住んだ。食事は母が作ってくれたから、問題なかった。また、何か困ったことがあれば、ヴェルディのスタッフが親身になって手助けしてくれた」
――カズがよくあなたの家へ来て、お母さんが作るブラジル料理を食べていったそうですね?
「カズもそうだし、他の選手も来ていた。みんな母の料理が大好きで、沢山食べていってくれた」
――カズは、満腹になるとソファで寝ていたとか……。
「ソファでもそうだし、床で寝ていたこともあった(笑)」
――当時のJリーグの運営と試合のレベルをどう思いましたか?
「運営面は、申し分なかった。選手たちは運動量が非常に多く、スピードがあった。技術レベルも悪くなかった」
――1993年、あなたはヴェルディの攻撃の中心を担います。ナビスコカップ決勝の清水エスパルス戦で同点ゴールをあげて優勝に貢献し、大会MVPに輝いた。Jリーグは、前期を鹿島アントラーズが、後期をヴェルディが制覇し、両者がチャンピオンシップで対戦。ヴェルディがカズとあなたの得点で先勝し、第2戦を引き分けてJリーグ初年度の王者となりました。
「前期は少し出遅れたけど、後期に盛り返し、チャンピオンシップでもいい試合ができた」
日本で幸福な毎日なのだから、W杯に出られなくても
――当時のヴェルディの選手は、連れ立って六本木や渋谷へ繰り出すことも多かったようですが…。
「僕は、母と一緒に住んでいたこともあり、夜はほとんど外出しなかった」
――ふたりとも、熱心なキリスト教徒ですよね。
「日本にも、僕が信仰するキリスト教福音派の牧師さんが東京にいることがわかった。そこで、毎週、牧師さんに僕の家へ来てもらって、ブラジル人の選手やスタッフの信者を集めてミサをしてもらった。そして、ミサが終わったら僕の母が作ったブラジル料理や牧師さんが作った料理を楽しんだ。これは、僕にとって非常に大切な時間だった」
――そして、1994年1月、ヴェルディとの期限付き移籍期間が満了します。
「ヴェルディは契約延長を望み、僕もヴェルディでプレーを続けたいと思った。ただ、もしヴェルディと契約を延長して日本に留まると、1994年W杯には出場できなくなりそうだった。
その後、ドゥンガ(元ジュビロ磐田)、ロナウドン(日本での登録名は「ロナウド」。元清水エスパルス)のように日本でプレーしていてもセレソンに招集される選手が出てきたけれど、当時はブラジルではJリーグがあまり注目されておらず、セレソンに招集されるには欧州かブラジル国内でプレーしている必要があった。かなり悩んだけれど、日本で幸福な毎日を送れているのだから、仮にW杯に出場できなくても悔いはない、と思った。バスコから自分のパス(所有権)を買い取り、ヴェルディと3年契約を結んだ。僕のキャリアにおいて、非常に大きな決断だった」
ヴェルディとの別れは、突然だった
――1993年に続き、1994年もJリーグとナビスコ杯の二冠を達成。個人としても、1994年から2年連続でリーグのベストイレブンに選ばれた。
「自分自身、とても良いプレーができたと思っている」
――ところが、ヴェルディとの契約が満了する1996年、クラブの財政難が明らかになります。
「大勢の選手がクラブから年俸のダウン提示を受けており、クラブの財政が逼迫していることは僕も気付いていた。そして、僕もプレー内容がよかったにもかかわらず、大幅ダウンの提示を受けた。「僕の方が『これくらいのダウンであれば、受け入れます』と言っても反応がなかった。これには驚いたと同時に、ショックを受けた。クラブを愛しており、クラブのため常にベストを尽くしてきた、という自負があったからね」
こうして、3シーズン半の間にJリーグとナビスコカップを2度ずつ(いずれも1993年と1994年)、天皇杯を1度(1996年)、計5個のタイトルを獲得した男が、ヴェルディを去ることを決意した。