「遠藤保仁がすべてを変えるって思った」――。中村憲剛が今も忘れられない衝撃の試合
今年30周年を迎えたJリーグ。1993年に開幕すると、記憶に残る名場面やスター選手の活躍をはじめ、多くのドラマを生み出してきた。
テレビ朝日のスポーツ番組『GET SPORTS』では、そんなJリーグ一筋でプレーし、多くの共通点を持つ遠藤保仁と中村憲剛が対談。
日本サッカー界を代表する2人がJリーグを語り尽くした。
テレ朝POSTでは対談の模様を全6回に分けてお届け。初回は「お互いのルーキーイヤー」「衝撃の初対戦」などに迫る。
◆目標は兄。「目の前にいいお手本がいた」
中村:「今年でJリーグが30周年を迎えたということで、今日はその歴史とともに僕たち2人の足跡をたどっていきたいと思います。まずJリーグの開幕は覚えていますか?」
中村:「カズさんだったり、ラモスさんだったりいましたよね」
遠藤:「すごくうまいな、華やかだなとは思っていたかな」
中村:「その頃ヤット(遠藤)さんの夢とか目標っていうのは?」
遠藤:「小さい時にサッカーでご飯が食べられればと漠然と思っていたけれど、中2のときにJリーグができてより明確にJリーガーになりたいと思ったね」
中村:「この時に憧れていた選手や目標にしていた選手はいますか?」
遠藤:「目標は兄貴ですよ、ずっと言っているけど。目の前にいいお手本がいたから、Jリーグができてもそこはあまり変わらなかった」
3兄弟の末っ子として生まれた遠藤。6歳上の長男・拓哉さん、4歳上の次男・彰弘さんとともに鹿児島で幼少期を過ごした。
遠藤:「小学生の時は毎日兄貴とボールを蹴っていたので、兄貴を超えるのが目標でしたね。(兄がJリーガーになった時点で)完璧に『Jリーガーになる』という感じだった」
兄の背中を追いかけ、同じサッカーの強豪校・鹿児島実業へ進学。1年生にして全国高校サッカー選手権の優勝に貢献。年代別の日本代表にも選出される。
そして1998年、鳴り物入りで横浜フリューゲルスに入団した。
◆「俺フリューゲルスが好きだったのよ」
中村:「どういう経緯でフリューゲルスに入ったんですか?」
遠藤:「そのへんよくわかってない。何個かオファーをいただいて…という記憶がないから。でも俺フリューゲルスが好きだったのよ。(だから)フリューゲルスでよかった」
中村:「相思相愛だったんですね。誰かがいるからとかではなくて、フリューゲルスが好きだったんですか?」
遠藤:「フリューゲルスが鹿児島に1年に1回、フランチャイズみたいな感じで試合に来ていて、ほぼ毎回見に行っていたんだよ。なおかつ今テレビで活躍している前園真聖さんが(チームに)いて、小学校の時から知り合いだった。それでかっこいいな、いいなと思っていた」
当時のフリューゲルスには日本代表の楢崎正剛、アトランタオリンピックでキャプテンを務めた前園真聖、ブラジル代表サンパイオらが名を連ねていた。
中村:「高卒1年目じゃないですか。その中でやれるな、難しそうだなというのはキャンプの時から感じてたんですか?」
遠藤:「やっぱりフィジカルは吹っ飛ばされたり、ガチャガチャってなった時に負けるとか覚悟はしていたね。でもボールさばきや運動量は大丈夫かなって。ある程度キャンプで自信をつかんでいた」
中村:「開幕戦起用されてましたね」
遠藤:「プロになって初めての試合はマリノスと。今の日産スタジアムかな。こけら落としで横浜ダービー。お客さんも満員のなか出させてもらって、Jリーグってすごいなと思ったし、たくさんの観客の前でプレーするって気持ちいいなと思った。もっと試合に出たいという気持ちになりましたよ」
その言葉の通り、遠藤は瞬く間に成長を遂げていく。
プロ4年目、ガンバ大阪に移籍すると、チームの司令塔に。「4点取られたら5点取り返す」というガンバの攻撃的なスタイルの原動力となった。
Jリーグでは史上初の10年連続ベストイレブンに。2002年からは日本代表にも選出されるなど、一躍トップ選手へと駆け上がった。
◆「遠藤保仁がすべてを変える」衝撃の初対戦
一方、中村は高校時代、全国大会の出場経験はなく、まったくの無名だった。
中村:「ヤットさんがプロになった時、高校3年生でした。高校の時はJリーガーになれるとはまったく思ってなかった。大学でも最初はなれないとは思ったんです」
遠藤:「でも練習には参加してたんだ?」
中村:「そうですね。2日間だけ見るっていう。今もいるじゃないですか」
遠藤:「いる。急に来て急に帰る子(笑)」
中村:「そうです。僕その子でした。トレーニングマッチで爪痕を残して、そこからちょっと経過観察。だからすぐには決まらなかったですね。半年ぐらい待たされて」
遠藤:「でもそれで入ったからすごいよね」
中村:「綱渡りの人生です」
中央大学在学中、当時J2の川崎フロンターレに練習生として参加。それを機に2003年に入団した中村。
視野の広さと素早い判断力から繰り出すパスを武器に、ルーキーイヤーからほぼ全試合に出場し、頭角を現していった。
プロ2年目にはJ2で優勝を経験。遠藤と初めて対戦したのは…。
中村:「2005年の4月3日。アウェーのガンバ戦。この1週間前に当時のナビスコカップでホームでガンバと戦ったんですよ。ヤットさんはA代表で居なくて、3対3だったんです。いけるなあと思って、万博に意気揚々と乗り込んでいったんです。
それで、メンバー表を見たら遠藤保仁がいる。初めての対戦でした。僕は前年にボランチにコンバートされて、意気揚々とJ2を駆け上がって『いけるぞ』と思っていたのに、ものの見事にやられた。ヤットさんは覚えてないと思うんですけど、僕はそのインパクトが今も強すぎて」
中村にとって忘れられない試合となったのは、記念すべきJ1初出場のゲーム。
ガンバ大阪は序盤から遠藤を中心に主導権を握った。前半6分、遠藤が自陣でボールを奪うと、そこからカウンターにつなげ、最後は大黒将志がゴール。遠藤の守備から貴重な先制点が生まれた。
その後、川崎もジュニーニョがゴールを決めるなど一進一退のなか、2対2の同点で迎えた後半44分、遠藤はフリーキックで決勝点をアシスト。攻守にわたって存在感を発揮した。
一方、中村は相手ディフェンスの素早いプレッシャーにボールを奪われ、自分らしいプレーをまったくさせてもらえなかった。
遠藤:「全然覚えてない」
中村:「でしょうね(笑)。そう思いますよ。僕はインパクト強すぎて」
遠藤:「俺ら勝った?」
中村:「勝ちましたよ。3対2でした。だけど、もう全然先週やったガンバじゃなかったんですよ。遠藤保仁がすべてを変えるって思った。自分が2004年、J2を優勝した時に培ったものを全部ぶつけたんですけど、全然ぶつからなかった。ぶつけてもらえる余地もなかったんです」
遠藤:「全然覚えてないわ」
中村:「大丈夫です。僕がよく覚えてる。だから終わった時に負けたんですけど、悔しさよりもこんな人いるんだという喜びのほうが強かった」
◆「ものすごく悔しかった」
そしてこの年にはもうひとつ、2人にとって大きな出来事があった。
初対戦から8か月後のシーズン最終戦。5チームが勝ち点差「2」にひしめく大混戦のなか、ガンバ大阪は初優勝のチャンスを迎えていた。勝利が絶対条件という状況で、中村擁する川崎と再び対戦することに。
中村:「自分の中でリベンジマッチ。初対戦の時より多少できたんですけど、それでも全然ダメだった」
前線に強力なアタッカーを擁するガンバは、前半12分、アラウージョが左足で豪快にネットを揺らし先制。川崎も中村のアシストなどで同点に追いつくが、後半34分、家長が倒されPKを獲得。この大事な場面、キッカーはPKの名手・遠藤。冷静に決め、勝ち越しに成功。これが決勝点となり、ガンバが最終戦で劇的な逆転優勝を飾った。
中村:「普通シーズン終盤の試合は1対0とかで決まるじゃないですか。でも4対2でしたよね。フロンターレもしっかり攻撃的だったのに」
遠藤:「あの試合は楽しかったよ」
中村:「どんな気持ちでしたか。初優勝ですよね?」
遠藤:「リーグ戦はガンバとしても個人としても初優勝だね。その前から手が届きそうで届かなかったので、嬉しさだけですよ。やっとチャンピオンになれたっていう。泣いている人もいたし、やっぱりリーグ優勝ってすごいなって思った」
中村:「僕個人としては初めて目の前で、しかもホームで胴上げされたので、ものすごく悔しかったです」
遠藤:「そうだよね」
中村:「それとともに、優勝ってそんなに素晴らしいんだって思いました。なかなか優勝の瞬間を見ることって、サッカー人生の中で多くないじゃないですか。J1上がった最初の年に、このぐらいやらないと、ここ(ガンバ)ぐらい強くないと優勝できないんだというのを感じましたね」
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遠藤保仁×中村憲剛対談、次回は、遠藤が「Jリーグで一番すごいと感じた選手」「26年のプロ生活の中で最も印象深い出来事」について語る。