G大阪1号ゴールから30年 関西Jクラブ知り尽くす和田昌裕氏が語る歴史的シーン、釜本邦茂氏、三木谷浩史氏

Jリーグは5月15日で開幕30周年を迎えた。1993年5月16日の浦和戦(万博)で、G大阪のJリーグ第1号ゴールを決めたMF和田昌裕(当時28歳)は現在、G大阪の取締役として、チーム強化やアカデミー運営の中枢を担っている。G大阪、神戸でプレーし、引退後はフロント、監督としてG大阪、神戸、京都の関西3クラブに在籍した和田氏に、初ゴール当時の記憶、さらにJリーグがたどってきた30年間と、今後歩む未来への思いについて聞いた。(取材・構成=金川誉)

■CKが「一瞬、来た!とびっくり」

当時の記憶は30年経っても鮮明だった。G大阪のJリーグ初得点。近年は遠藤、宇佐美と受け継がれた7番を最初に背負い、試合を決める歴史的ゴールを奪ったのが和田氏だった。0―0で迎えた前半29分の左CK。MFリナルドのキックにペナルティーエリア外から走り込み、左足で合わせてゴール右隅へねじ込んだ。

「僕はこぼれ球に反応する役目。全員がエリアの中で、僕だけエリア外でフリーだった。それをリナルドが見逃さなかった。まったく準備した形ではなくて、一瞬、来た!とびっくりしたけど、コントロールする時間もないし、ダイレクトで蹴った。そしたら誰にも当たらずコロコロと…。もっといい得点ならよかったけどね。今でも話題にしてもらえるのは幸せです」

この1点でG大阪は勝利を飾り、最高のスタートを切った。Jリーグという新たな環境は、日本サッカーリーグ(JSL)を経験してきた和田氏にとって未知の世界。1987年に松下電器に入社し、引退後は同社で社業というイメージを描いていた中、J発足という新時代が訪れた。アマチュアからプロに移行し、すべてが変わっていった。

「最も大きかったのは意識の変化。JSL時代はお客さんも少なかったのに、満員の前でプレーすることになったとき、責任感のハードルが一気に上がった感覚でした」

1年目は主力として活躍したが、2年目は負傷で出場3試合に終わり、チームも最下位の10位と低迷。釜本邦茂監督が解任され、シーズン後、釜本氏宅に選手数人が招かれた。その際「おまえが今年おらんかったからや!」と手ぬぐいを投げつけられたことも、今ではいい思い出だ。

■カズら獲得「力のある選手が多すぎても」

95年は地元・神戸に移籍し、JFLからJ昇格に貢献。同年1月の阪神大震災で傷を負った神戸のためにプレーし、98年限りで引退。幼稚園・小学生年代を指導する神戸のサッカースクールを立ち上げた。その後はトップチームのコーチを務める中、神戸は経営難で2003年に民事再生法の適用を申請。楽天・三木谷浩史氏のクリムゾングループに譲渡され、立ち直りを図る激動の時期を迎えた。

「当時の神戸は、監督がコロコロ変わるのは当たり前だった。選手はすごかった。カズに岡野、城…エムボマも。力のある選手が多すぎても、まとまっていかない時期だった」

J2降格した06年は指導者から強化部長に転身。ところが09、10年は2年連続で監督解任により、シーズン途中から監督就任。10年はラスト7試合無敗で切り抜け、奇跡の残留に導いた。

「三木谷さんと同い年。普段はフランクに話せたし、相談にも乗ってもらえた。でも(10年は)話が来たとき、正直残留は厳しいと思っていた。三木谷さんから電話で『ここは和田さんしかいない』と言われても、一度持ち帰った。妻に相談したら『絶対に落ちるの? 残せばいいやん』と言われて。その日の夜にやりますと返事しました」

■選手、フロント、監督あらゆる立場

監督としてのキャリアを自ら切り開き、翌11年には当時クラブ最高順位となる9位。その後は14年にタイ1部チョンブリ、15年には京都を指揮。選手、フロント、監督とあらゆる視点でJクラブと関わった人材は少ない。20年にはG大阪に復帰し、経営にも関わるポジションになった。

「日本はまだまだ欧州と比べると市場規模が小さい。日本代表がW杯でベスト8、4にいって、もっと認められれば、選手の価値は高まる。そのためには素質ある若い選手を育て、リーグのレベルも上げていかないといけない。素材を見つけ、育て、花を咲かせる。まだまだ、これからの人生できることがあると思っています」

Jリーグ30年の歴史の大部分に、関西のクラブでさまざまな立場で関わってきた和田氏。さらなる発展と未来を見据え、次なる歴史を支えていく。

◆和田 昌裕(わだ・まさひろ)1965年1月21日、兵庫・神戸市生まれ。58歳。御影高、順大を経て87年にG大阪の前身・松下電機サッカー部へ。Jリーグ発足後はG大阪の一員としてプレーし、95年途中に神戸へ移籍して98年限りで引退。その後は神戸でコーチ、監督、強化部長、副社長など歴任。14年にタイ1部チョンブリ、15年には京都で監督を務め、16年12月からJ2金沢の強化・アカデミー本部長に就任。20年4月にG大阪で強化アカデミー参与、22年から取締役に。

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