「遠藤保仁のベストイレブン最多12回受賞の次に多い選手は」など、Jリーグ30周年を記念してクイズを出題
Jリーグ30周年を記念して、Jリーグにまつわるクイズを30問出題。ここでは得点王やベストイレブンに関する問題など。いくつ答えることができるか?(全3回の第2回)
◆【画像・図】誰が入る? 識者10人が選んだJリーグ30年のベストイレブン フォーメーション
【問題(答えは本文後半から)】
Q11:Jリーグ30年の歴史のなかでJ1最多退場数(レッドカード)の不名誉な記録を持つのは、あのドラガン・ストイコビッチの13回です。では、警告(イエローカード)のJ1最多記録を持つのは誰でしょう?
Q12:1993年当時、Jリーグで選手が着用することができた背番号とは、次の3つのうちどれでしょう? A:12 B:17 C:99
Q13:1994年のアメリカW杯で優勝したブラジル代表のうち、ワールドカップ開催時にJクラブに所属していた選手はロナウダン(清水エスパルス=Jリーグでの登録名はロナウド)だけでした。では、当時のセレソンのなかで、その後Jリーグのクラブでプレーすることになった選手は何人いるでしょう?
Q14:Jリーグではワールドカップで得点王に輝いた選手が5人プレーしていますが、そのなかで通算ゴール数が最多の選手は誰?
Q15:Jリーグでは数多くの韓国人選手が活躍してきましたが、韓国代表選手として初めてJリーグでプレーしたのは誰でしょう?
Q16:Jリーグで選手としてプレーした経験のある監督で、初めてJ1リーグ優勝を成し遂げたのは誰でしょう?
Q17:日本代表監督退任後に、Jリーグクラブで監督を務めたことのある指導者は何人?
Q18:Jリーグベストイレブン。遠藤保仁の最多12回に次いで、受賞回数の多い選手は?
Q19:Jリーグベストイレブン。FWで最多4回受賞している選手は誰?
Q20:今年から秋春制に移行するアジアチャンピオンズリーグ(ACL)。2023/24年大会には2022年J1リーグ優勝の横浜F・マリノスと同2位の川崎フロンターレ、天皇杯優勝のヴァンフォーレ甲府、それにACL優勝チームの浦和レッズが出場します。川崎はこれで10回目の出場になりますが、すでに10大会に出場しているクラブとはどこでしょう?
【解答編】
A11:大久保嘉人
大久保には合計104枚のイエローカードが出されています。100枚以上という大記録を持つのは大久保と小笠原満男の2人だけです。しかも、大久保は退場回数でもストイコビッチに次いで2番目の12回を記録しています。警告数でも退場数でも当然のことながら守備的MFやDFが名を連ねているなかで、アタッカーとして最多記録を持つピクシーと大久保はまさに”別格”の存在でした。
A12:Aの12番
1993年当時は先発選手が1番から11番、控え選手(当時は5人)が12番から16番を着けていた。JSL時代は固定背番号制だったが、プロ化と同時にヨーロッパの各国リーグに倣ってポジション別背番号を採用したからだ。GKが1番、ライトバックが2番……CFが9番……左ウィングが11番である。ところが、商業化の進行とともに1990年代に入るとヨーロッパでは固定背番号制が採用され、Jリーグでも1997年には固定背番号制に変更になった。その結果、エース番号の10番以外に、中村憲剛の14番、セレッソ大阪の8番など特別の番号が生まれた。
A13:5人
ジウマール(清水)、ジョルジーニョ、レオナルド(ともに鹿島アントラーズ)、ドゥンガ(ジュビロ磐田)、ジーニョ(横浜フリューゲルス)の5人がJリーグにやって来ました。欧州クラブの財政力が急拡大するのは2000年代以降のことでした。つまり、Jリーグが開幕した1990年代前半頃は、日本のクラブには世界第2の経済大国の大企業がついており、欧州クラブとの間に財政面での大きな差はなかったのです。だからこそ、ブラジルやアルゼンチンの代表クラスがJリーグで何人もプレーしていたのです。
A14:サルバトーレ・スキラッチ(56点)
1990年イタリアW杯で6ゴールを決めて得点王となったシチリア島出身の熱血ストライカー。1994年4月にインテルから磐田に引き抜かれ、翌1995年には31ゴールを決めて得点王争いでトップを走っていましたが、リーグ終盤で負傷離脱してしまい、福田正博(浦和)に逆転されました。W杯得点王としてはほかにもガリー・リネカー(イングランド)、フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)、ダビド・ビジャ(スペイン)、ディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)がJリーグでプレーしています。
A15:盧廷潤(ノ・ジョンユン)
高麗大学時代に韓国代表入りし、将来を嘱望されていた盧廷潤。Kリーグからの誘いを断ってサンフレッチェ広島入りしたことで韓国社会から批判され、1993年のアメリカW杯最終予選で韓国が日本に敗れた時には「スパイ呼ばわり」もされました。それでも、W杯には1994年、1998年フランスの2大会に韓国代表として参加しています。MFとしての能力とともに気さくな人柄で親しまれ、その後多くの韓国人選手がJリーグで活躍するきっかけを作りました。
A16:ギド・ブッフバルト
長く西ドイツ(ドイツ)代表の守備の要としてプレーし、1990年のイタリアW杯決勝ではマラドーナを完封して優勝に貢献。準々決勝敗退で終わった1994年アメリカW杯後に代表を引退して、浦和レッズに入団しました。その後、浦和では1997年までプレー。2004年に浦和の監督に就任すると、同年第2ステージ優勝。翌シーズンには天皇杯も獲得。2006年に浦和にとって初めてとなるJ1リーグのタイトルをもたらしました。なお、日本人では2012年に広島を優勝に導いた森保一が初の元Jリーガーの優勝監督です。
A17:4人(森孝慈、横山謙三、ハンス・オフト、岡田武史)
日本を初めてW杯出場(1998年フランスW杯)に導いた岡田武史は、それまで監督経験がなかったが、代表監督辞任後はコンサドーレ札幌でJ2優勝。横浜F・マリノスでJ1でも連覇を達成し、日本を代表する監督の1人となった。だが、その後、代表監督経験者でJリーグクラブを率いた人物はいない。代表初の外国人監督オフトは、ジュビロ磐田や浦和レッズで、のちに強豪となるクラブの基礎を築いた。森、横山両氏はプロ化以前の代表監督。
A18:田中マルクス闘莉王(9回)
1998年に千葉県の渋谷幕張高校に留学して広島、水戸ホーリーホックを経て、浦和や名古屋グランパスでセンターバックとしてプレー。ブラジル出身者らしい「歯に衣を着せない」コメントも独特でした。当初はFWとしてその高さを生かすプレーを見せていましたが、その後守備的なポジションにコンバートされ、2010年の南アフリカW杯では中澤佑二と組んで鉄壁の守備を築き上げ、日本代表のラウンド16進出に貢献。DFになってからも攻撃参加が大好きな選手でした。
A19:中山雅史
ボールを持ったら、まず超アグレッシブに相手のゴールを目掛けて積極的に仕掛けていく中山のスタイル。真っすぐにゴールに向かってくるプレースタイルはDFにとっては厄介な存在で、そのパワフルな突破力には日本人離れしたものがありました。1998年4月には4試合連続ハットトリックを決めるなど華々しいプレーで注目を集め、「ゴン中山」としてサポーターから熱心なサポートを受けました。
A20:鹿島アントラーズとガンバ大阪
鹿島とG大阪は”常勝軍団”として共に10回出場していますが、それぞれ優勝は1回のみ。一方、優勝回数が多いのは浦和レッズで、リーグ・チャンピオンとしての出場は1回だけですが、カップ戦では強みを発揮。天皇杯優勝チームとして出場した2022年大会の決勝(2023年4、5月開催)でも守備戦術を徹底しながらカウンターをしかけ、強豪アル・ヒラル相手に1勝1分で勝利して優勝。「3度の優勝」は全アジアを通じて初めての快挙です。浦和は次の大会で9回目の出場となります。