【Jリーグ30年の冒険】48歳の今も現役…伊東輝悦 まさかこれだけ長くプレーするとは『すげぇ幸せだな』
◇当事者たちが語る軌跡と未来
1993年に清水加入後、Jリーグ一筋で唯一、現役選手として活躍しているJ3沼津の元日本代表MF伊東輝悦(48)は穏やかな笑みを浮かべ、30年のプロキャリアをこう振り返った。
「サッカーが好きで、プレーすることが何より楽しい。プロ1年目から何も変わらないですね。若い時に『長くプレーできたらいいな』と思っていたけど、まさかこれだけ長くプレーしているとは思っていなかったから、変な話、プレーすることに関してはいつ辞めてもいいんじゃないかというか、言うことねぇっていうか。これだけプレーできているのは、『すげぇ幸せだな』と思っているんです」
静岡・東海大一高から鳴り物入りで地元クラブに入団した。当時のチームには大榎克己、長谷川健太(現名古屋監督)、堀池巧の「清水三羽がらす」、沢登正朗、元ブラジル代表のトニーニョら多士済々の面々がいた。伊東は2軍に相当する「サテライト」が主戦場だった。
「トップとサテライトにチームが分かれていて、練習もグラウンドも別でしたね。当時は自前のグラウンドがなかったので、トップはクラブハウスに集合して、マイクロバスで富士川の河川敷に行ったり、サテライトは練習会場までそれぞれの車で乗り合いで行ったり。高卒で入ったばかりで、プロがどういうものかそもそも分かっていなかったので、たまにトップの練習に参加しても付いていくのがやっと。トップチームで早くピッチに立ちたいと思って、とにかく一生懸命やっていましたね」
プロ2年目の1994年6月・G大阪戦でJリーグ初出場。ただ「あんまり覚えてなくて」。試合結果、プレー内容に一喜一憂することなく、成長するために鍛錬の日々だった。
「普段のトレーニングをしっかりやるしかなかった。いつチャンスが来るか分からない。だから、常にトレーニングして準備しながらだったかな。自分のプレーを早く確立したい、自分らしさを出したいという思いがあって、五輪代表に行ったり、いろいろなポジションを経験したりして、プレーの幅の広さで勝負できるかなと思っていた」
実直な伊東らしい、伊東だけの逸話がある。30年のプロ生活で所属クラブと複数年契約を結んだのはわずか1度だけ。五輪、W杯に出場したトップ選手としては異例だろう。でも、伊東自身は当たり前のように「1年勝負」という厳しい環境に身を置き、真摯(しんし)にサッカーと向き合い続けてきた。
「当時は代理人もいなくて大した交渉もできないというか、分からない。一年一年で勝負する感じですね。だから、毎年11月くらいになると、あまり考えてもしょうがないんだけど、『来年、どうなのかな?』というのはありました。もしかしたら、(複数年を)要求しなかったからかもしれないけど、僕はそれでも『まあ、いいかな』とちょっとは思っていた。緊張感があるじゃないですか? 40歳の時に長野で『2年契約』と聞いて、それまでずっと単年だったから驚きましたね。年末を心穏やかに過ごしたのはそのときだけですよ」
清水に18年間在籍後、甲府、長野、秋田、そして、郷里に近い沼津にたどり着いた。心が折れそうになったり、人知れず悩んだりしたこともあったはずだ。どんな苦境でも、淡々と、黙々と、勝利のために努力を積み上げてきた「鉄人」の秘訣(ひけつ)はどこにあるのか?
「普段からベストを尽くしながら、試合に向けてしっかり準備する。勝てたらベストだけど、負けたとしても何か残るものがあると思う。反省して、また次に向かう。もうずっと、その繰り返しだった。練習も嫌いだし、できたらやりたくないけど、そういうわけにはいかないじゃないですか。やるべきことをやらないと生き残れない。『何をしなきゃなんねえのかな?』と考えたら、やっぱり練習するしかないんですよ」
48歳になって、向上心は尽きるどころか燃え盛っている。力の限りを尽くした先に、伊東だけの未来がある。
「今季も全力でプレーしたいと思っている。その先のことまではあんまり考えてないかな。1試合でも多く勝ちたいし、欲を言えばJ3で優勝して、J2に上がれたらいい。そこに少しでも力になれればいい。地域の方が元気になったり、笑顔が増えたりするようなことに貢献できればいいなと思う」
▼伊東輝悦(いとう・てるよし) 1974年8月31日生まれ、静岡県清水市(現静岡市)出身の48歳。168センチ、70キロ。東海大一高(現東海大静岡翔洋高)から93年に清水入り。甲府、長野、秋田を経て、17年に沼津へ移籍。J1通算517試合出場、30得点。96年アトランタ五輪に出場し、1次リーグ初戦・ブラジル戦で得点した。98年W杯フランス大会日本代表。国際Aマッチ通算27試合出場。正確な技術と豊富な運動量を武器に攻守のつなぎ役を果たすミッドフィルダー。