金子達仁氏 阪神から1面奪ったG大阪の熱に一夜で惚れた
Jリーグは15日に30周年の節目を迎える。開幕時からJリーグを観戦しているスポーツライター金子達仁氏(57)がスポニチ本紙に特別寄稿した。
【金子達仁氏 特別寄稿】93年5月15日土曜日、もうキックオフまで1時間を切ったというのに、わたしと編集長は市ケ谷にある大日本印刷の出張校正室にいた。翌週水曜日に発売される「週刊サッカーダイジェスト」のゲラの最終チェックに追われていたのだ。
何とかキックオフの45分前ぐらいに最終校了し、大慌てでタクシーに飛び乗ると、ラジオから川淵チェアマンの開幕宣言が聞こえてきた。神宮外苑にさしかかると、今度は国立から溢(あふ)れ出るチアホーンの音。「うわ、ホントにJリーグが開幕するんだ」と今更ながらに実感したことを思い出す。
到着したのはキックオフ直前。「走るぞ、カネコ」と編集長に言われ、その通りに記者席まで走れたわたしはまだ20代だった。
汗だくで記者席にたどりつくと、目の前には超満員の観客席が広がっていた。
遡(さかのぼ)ること8年前、W杯アジア予選決勝で韓国と対戦した際、試合前にスタンドの様子を覗(のぞ)きにでてきた都並敏史は、初めて見る満員のスタンドにのけぞった。あのときに彼も、のけぞる姿にスタンドから共感していた大学2年生も、もう二度と見ることはないだろうなと諦めていた光景が、目の前にある。わたしは感無量だったし、スタンドの下では、両軍のベテラン選手が涙をぬぐっていたと聞く。
正直、試合前の感激が大きすぎて、細部はほとんど覚えていない。ただ、物凄い熱量のまま進んでいく国立での試合を半ば呆然(ぼうぜん)と眺めるうち、漠とした不安が芽生えたことは覚えている。
(明日、大丈夫だろうか)
わたしが担当することになったのはガンバ大阪だった。いろいろな人に「なぜ?」と聞かれた。日本代表を担当している他誌の人間は、ほぼ例外なくヴェルディかマリノスの担当。当然である、日本代表選手がズラリと顔を揃(そろ)えているのだから。
だが、わたしの担当はガンバだった。それも、自ら望んでの担当だった。理由は2つあって、一つは高校時代から知っている礒貝洋光が入団したから、ということ、そして一番大きかったのは、担当決めをした92年、阪神が大躍進を見せていたから、だった。
つまり、ガンバ担当になれば、常に礒貝の試合が見られるだけでなく、その前後で甲子園にいくことができる。かくも邪(よこしま)な動機で立候補したガンバ担当だったのだ。
というわけで、試合前の段階で、わたしにはガンバに対する思い入れなど微塵(みじん)もなかった。ただ、これだけ国立が盛り上がっているのに、大阪がさっぱりだということになるとヤバイな、という思いはあった。
そして、たぶんさっぱりだろうな、と覚悟もしていた。プレシーズンを見る限り、関西地方のサッカー熱は、関東や東海に比べると明らかに低く感じられたからである。
それが完全なる杞憂(きゆう)だったことを、5月16日、わたしは思い知らされた。
試合内容はボロボロだった。レッズのシュート14本に対し、ガンバは5本。一歩間違えれば惨敗もありえた内容だった。だが、和田昌裕がCKを右足であわせて先制すると、あとは耐えて耐えて耐えまくった。ようやく鳴り響いた終了のホイッスルに、喜びを爆発させる万博の2万観衆。それは、前夜の6万人と熱狂以上に予想外で、わたしは、一夜にしてガンバに惚(ほ)れた。
翌日、1面は阪神が当たり前の在阪スポーツ紙も、この日ばかりはこぞってガンバを、和田を1面にもってきていた。阪神が横浜ベイスターズに負けていたから?いやいや、仮に中込が完封していたって、あの日ばかりはガンバが1面だったとわたしは今でも信じている。(スポーツライター)