なぜガンバ大阪DF半田陸は鳥栖・川井健太監督に感謝を伝えたか…「SBで勝負したい」19歳時の決断と山形時代の縁〈パリ世代インタビュー〉
森保一監督率いるA代表とともに注目したいのは、大岩剛監督のもとでパリ五輪を目指す世代別代表だ。Jクラブや海外で研鑽を積むパリ世代の素顔を追うインタビューシリーズ、今季からガンバ大阪の一員になった半田陸に、モンテディオ山形時代を含めた指導者との出会いやサイドバックの理想像などを聞いた。(全2回の1回目/後編も)
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パナソニックスタジアム吹田に2万5000人の観客を集めて行われた2月25日のJ1リーグ第2節、ガンバ大阪×サガン鳥栖戦は1-1の痛み分けに終わった。
試合終了後、ガンバのダニエル・ポヤトス監督と鳥栖の川井健太監督が両ベンチの間で握手し、健闘を讃え合う。
その後しばらくして、ガンバベンチから川井監督に歩み寄っていく選手がいた。
今季、J2のモンテディオ山形からガンバに加入した半田陸である。
この日、右サイドバックとして先発した半田は、攻撃の組み立てに何度も関わり、90分にベンチに退いていた。
「挨拶程度というか、そんなにたくさん話したわけではないんですけど、会えて嬉しかったです」
恩師・川井監督も「再会できたのはすごく嬉しい」
半田にとって川井監督は、恩師のひとりだ。
山形時代、センターバックから右サイドバックへと転向した半田に、現代的なサイドバックの所作をレクチャーしたのが、当時、山形でコーチを務めていた川井監督なのだ。
「今の自分があるのは、川井さんのおかげと言っても過言ではないですね」
そんな半田の言葉を川井監督に伝えると、「ああ、そうですか」と言ってうなずいた。
「こういう場で再会できたのは、すごく嬉しいですね。彼は当時から力がありましたから、少し寄り添って指導させてもらったという感じですね。ただ、それだけです。彼の一番の魅力はやはり、受け入れる姿勢を持っていること。もっともっと素晴らしい選手になってほしいですね」
半田と川井監督が出会ったのは、2021年5月のことだった。
山形を率いていた石丸清隆監督が退任し、後任には前年まで清水エスパルスの指揮官を務めたピーター・クラモフスキー監督が就任する。それに伴い、前年まで愛媛FCを率いていた川井監督がコーチとして招聘された。
中学時代から山形のアカデミーで育った半田は、センターバックやサイドバック、ウイングバックをこなす守備のユーティリティが魅力の選手である。高校3年生となる17歳の春にプロ契約を結び、この19年シーズンに右ウイングバックとして2試合で先発している。
“射止めたはず”のCBレギュラーの座を自ら返上の理由
キャプテンとして出場した19年のU-17W杯ブラジル大会ではセンターバックを務め、20年シーズンも主にセンターバックとして15試合に出場する。3試合連続スタメンでシーズンを終えたため、センターバックのレギュラーの座を射止めたように見えた。
ところが、半田はその座を自ら返上するのだ。
「サイドバックとして勝負がしたいと、そのオフに強化部に伝えました。僕は176cmと身長が高くないので、生き残るにはセンターバックではないなって、ずっと思っていたんです。U-17W杯の頃から、強い意志ではなかったですけど、サイドバックをやりたいなって。あの大会でセンターバックは無理だと痛感したわけではなくて、センターバックも楽しいし、W杯でも十分やれたんですけど、将来、世界で勝負することを考えると、サイドバックのほうがいいだろうと」
とはいえ、プロ3年目を迎える19歳の青年が、掴みかけているレギュラーの座を自ら手放すことは、勇気のいる決断ではなかったか。
「いや、その怖さはまったくなかったですね。覚悟を持って、サイドバックで勝負したいと伝えました」
右サイドバックへの転向――。
それは同時に、不動の存在への宣戦布告を意味していた。
右SB転向直後、全く出番が巡ってこない時期に…
山形の右サイドバックを預かるのは、08年に市立船橋高から加入して以来、山形ひと筋でプレーする山田拓巳である。このバンディエラからポジションを奪わない限り、半田の右サイドバックとしての道は開けない。
「山さんはずっと試合に出続けてきた選手。監督が代わっても試合に出続けられる選手ってなかなかいないので、凄いなとずっと思っていましたし、そこにどうやって自分が、と考えていました」
半田の希望どおり、21年シーズンはキャンプから右サイドバックで起用されたが、山田の壁を越えられぬまま開幕を迎えることになる。
開幕から3試合続けてベンチ入りしたものの、1秒たりとも出番なし。勝負のシーズンに固めた覚悟は、早くも打ち砕かれてしまう。
「山さんの存在は確固たるものがあったので、これは無理だなって。今だから話せますけど、仲介人に『サイドバックとして、どこかレンタル移籍できませんか』って、相談していましたから(苦笑)」
4節の栃木SC戦では、左サイドバックの松本怜大の負傷によって87分からピッチに立ったが、なんのアピールにもならなかった。
当初は「立ち位置も曖昧で、雑なプレーが多かった」が
ところが、松本の長期離脱が決まり、山田が左サイドバックに回ることになって、半田に右サイドバックとしての出場機会が巡ってくるのだ。
「あのままベンチだったら、何もないシーズンでしたね」
その後、石丸監督に代わって就任したクラモフスキー監督のもとで、半田は右サイドバックとして起用され続けていく。
クラモフスキー監督のサッカーはポジショナルプレーの概念をベースに、攻守においてゲームを支配するスタイルである。右サイドバックの半田にも、ボールがうまく循環するような、相手を混乱させるような、ロジカルな立ち位置とプレーが求められた。
そんな現代的なサイドバック像構築のサポートをしてくれたのが、コーチに就任した川井だったのだ。
「ボール扱いといった基本的なところから、立ち位置、スペースへの走り方など、イチから全部教わりました。『チームの勝敗は気にしなくていいから、自分のパフォーマンスに集中しろ』とも言ってくれて、気が楽になったのを覚えています」
それまでも、右サイドを駆け上がるだけでなく、ピッチ中央に潜り込むトライはしていたが、「立ち位置も曖昧で、雑なプレーが多かったと思います」と半田は振り返る。
「健太さんには感謝してもしきれないです」
だが、川井と出会って、プレーが整理されていった。
「試合前にも、対戦相手を分析して『今日はここが空くよ』とかアドバイスをしてくれたり、試合後や練習後には映像を使ってミーティングをしてくれました」
コーチとして川井はチーム全員をサポートしていたが、特に自分は気にかけてもらったという印象が、半田にはある。
「当時アヤックスにいた(ヌサイル)マズラウィ(現バイエルン)の映像もよく見せてもらいましたね。マズラウィは内側でも普通にプレーできますし、ゴール前にも入っていって、ラストパスを出したり、シュートまで行ったりもする。自分もそういうプレーを参考にしていました。だから、健太さんには感謝してもしきれないです」
22年に川井がJ2クラブのコーチからJ1クラブの監督へと転身すると、その1年後、半田も戦いの舞台をJ1へと移した。
23年シーズンのホーム開幕戦は、頑張っている姿をかつての恩師に見せるという意味で、半田にとって特別なゲームだったのである。