明神智和が20年前の日本代表の準備の甘さを吐露。「トルコ戦に向けて死に物狂いだったかというと、ノーだと思う」
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」明神智和インタビュー(2)
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(1)はこちら>> 「試合が終わった直後は、ただただ悔しいしかなかったです。茫然と『ああ、ワールドカップが終わってしまったんだな』と」
2002年ワールドカップ日韓大会。決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れ、失意に沈んだ明神智和だったが、本当の意味での現実を突きつけられたのは、その日の夜のことだった。
「負けて、終わって、宿舎に帰って韓国の結果(決勝トーナメント1回戦でイタリアに勝利)を聞いたりした時にこう……、自分たちは本当に力を出しきれたのかな、と。もちろん、相手の試合の進め方のうまさ、こっちのよさを出させないうまさはあったと思います。でもなんか……、うーん……、もったいなかったなって」
トルコ戦後、チームは仙台のホテルに泊まったと、明神は記憶している。
「ホテルに帰って、食事会場だったのか、ホテルのバーだったのか、選手みんなで一杯飲みながら話そうか、みたいな感じになって集まったんですけど、みんな元気がなかった。まだ現実を受け入れられていないし、韓国が勝ったっていう話も聞いて……、もっとできたよなとか、そういう感情はものすごくありました」
当時を振り返ると、大会前の準備期間も含めたおよそ1カ月、明神には充実した日々を過ごした記憶が残っている。ベースキャンプの拠点であり、大会中の多くの時間を過ごした静岡のホテルには、いい思い出しかない。
「(宿泊していた)葛城北の丸の静かな環境でキャンプを張ることができたので、それが僕たち選手にとっては、ものすごくありがたかった。外とは完全にシャットアウトされますし、だからこそ、試合の緊張感からうまく離れられたところがありました」
地元の体育館で行なわれるメディア対応の時だけ、車で”下界”に下りていく。そんな時、同行する広報担当者に頼んでこっそりコンビニ寄ってもらうのも、密かな楽しみになっていた。
「日々、そういう環境を楽しんでいましたね(笑)」
だが、仙台から静岡に戻ったあとの記憶だけははっきりしないと、明神は言う。
「確か(トルコ戦の)次の日には静岡に戻って、(チームは)解散したと思うんですけど、どうやって仙台のホテルから帰って、(キャンプ地のホテルの)部屋を片づけて、どうやって解散したのか。全然覚えていないんですよね」
そして一拍置き、こう続けた。
「なんか、あっという間に終わってしまったというか、そう感じた印象だけが自分のなかにあります」
それは単にひとつの大会の終わりというだけでなく、4年間の戦いの終わりをも意味していた。
「(開催国でワールドカップの)予選がないなかで、シドニーオリンピックも含めて、A代表とオリンピック代表が並行していろんな準備をして、2002年ワールドカップに向けてチームを作ってきた。それがなんか……、本当に終わってしまったんだなって。その寂しさはありましたね」
グループリーグを2勝1分けの無敗で突破し、どこまで勝ち進むのかと期待された日本代表に突如訪れた終焉の時。20年を経た現在、トルコ戦を振り返り、明神は何を思うのだろうか
。 「日本でやるワールドカップだったので、(開催国としてシードされたために)グループリーグでの対戦相手は、正直恵まれていたと思います。しかも、決勝トーナメント1回戦の相手がトルコ、”たられば”ですけど、そこで勝っていれば、次はセネガル。そういう組み合わせって、今後もまずないと思いますからね。そういうことを振り返ると、あとになって感じるものではありますけど、ものすごく大きなチャンスを逃したなと思います」
明神は「当事者としてそのなかにいた時には、(決勝トーナメント進出を決めたことでの)緩みとか満足感とか、そういったことは考えたこともなかった」ときっぱり言い切るが、「ただ」とつないで、こう続ける。
「今振り返ると、やっぱり予選突破したことで、どこかでふっと緩んでいた部分もあっただろうし、じゃあ本当に、ベスト8、ベスト4を自分たちが死に物狂いでつかみにいく姿勢で、あのトルコ戦に向けて準備できていたかというと、そこはノーだと思います。だからこそ、もっと自分たちがハングリーになっていれば、結果は違ったんじゃないのかなって、その後悔はずっと残っています」
20年前の日本代表を取り巻く状況を考えれば、選手が多少の安堵感を覚えたとしても無理はない。それはある意味で当然のことでもあるからだ。
当時はまだ、日本代表が過去にワールドカップに出場したことは一度だけ。それも、グループリーグを3戦全敗で敗退しているのである。
1勝どころか、まだひとつの勝ち点も手にしたことがないチームにとって、グループリーグ突破がどれほど困難なタスクであったか。選手が相当の重圧を感じていたことは、想像に難くない。
「自分では感じていなかったけど、グループリーグを突破することが目標だと言い続けてきて、その最低限の目標を突破したことによって、さらに上を目指すんだっていうエネルギーが、もしかしたら少し弱くなっていたのかもしれません。それはもちろん、あとになって思ったことですけどね」
それから20年、日本代表はワールドカップで2度のベスト16進出を果たし、現在はベスト8進出を目標に掲げるまでに成長した。
だが、当時は時代が違った。
自国開催によってさまざまなアドバンテージがあったとはいえ、それを生かして、したたかに勝ち上がっていくには、日本代表はまだまだウブだったということだろう。
「とにかくグループリーグを通過しなければいけない。そのプレッシャーは感じていましたから、それを達成できた満足感がやっぱり頭のどこかにあったんだと思います。
もしベスト8に絶対行かなきゃいけないんだとか、そういうチーム状態で戦っていれば、決勝トーナメント1回戦を迎える前に違った雰囲気を作れていたはずです。今だから言えることではありますけど、トルコと対戦する前にもっと自分からも発信して、もっともっとピリっとした空気を作って試合に入れていたら……って、それはもう、ずーっと思っていることですね」
(つづく)
明神智和(みょうじん・ともかず)1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。