明神智和が明かす20年前のトルコ戦の悔恨。違う結果になったかもしれないワンプレー

日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」明神智和インタビュー(1)

【画像】サッカー日本代表の歴代最強はどのチームか?

それは日本が初めて経験する、ベスト8進出をかけた戦いだった。

2002年ワールドカップ日韓大会。日本はグループリーグを2勝1分けで首位通過し、初の決勝トーナメント進出を果たしていた。

しかも1回戦の相手は、トルコ。それを勝ち上がれば、準々決勝の相手はセネガルか、スウェーデン。準決勝までの道のりに、過去に優勝経験を持つようなビッグネームとの対戦はなく、恵まれた組み合わせに日本国中が沸き立った。

ベスト4進出が見えた、と。

しかし、結果はトルコに0-1で敗れ、あっけなく1回戦敗退。不完全燃焼の印象を残し、日本代表の戦いは幕を閉じた。

なぜ日本代表は、グループリーグの勢いを持続できなかったのか。

ピッチ上で”日本代表の最期”を迎えた明神智和の回想とともに、20年前のトルコ戦を振り返る――。

この大会、日本代表は静岡にベースキャンプを置き、グループリーグ3試合は移動がしやすい関東2か所(埼玉、横浜)と大阪で戦った。

ところが、グループリーグを”望外”の1位で通過したことにより、決勝トーナメント1回戦の会場は宮城となった。つまり、それまでで最も長い移動が必要となったのである(2位通過なら、会場は神戸だった)。

しかも、試合当日の宮城は、朝から激しい雨が降り続いていた。この試合、それまでにはなかったいくつかの悪条件が重なっていたことは間違いない。

だが、明神は当時の心境を、こう振り返る。 「宮城でやるとか、移動があるとかについては、まったく気にしていませんでした。雨が降って、(宮城スタジアムに)陸上トラックがあって、少し熱気が冷めるような雰囲気はあったのかもしれませんけど、それが試合に影響したということはなかったと思います」

一方、ピッチ内に目を移せば、フィリップ・トルシエ監督の采配にも”異変”が起きていた。明神が語る。

「ヤナギ(柳沢敦)が練習中にケガをして、次(トルコ戦)に誰が出るのかってなった時に、練習でアレックス(三都主アレサンドロ)がFWをやったりしていて。今まで試合ではやったことのない配置だったので、なんかこう……、多少ザワザワっとした空気があったような気はします」

「ファーストタッチでボールをコントロールしてミドルシュートを打ったんですけど、無回転で打とうとして、そこでしっかりミートすることができなかったんです」

右足から放たれたシュートは力なく転がり、無情にもゴール左へ外れていった。

「ボランチであっても、あれでゴールを決める力を持っていないといけないし、最低でも枠に飛ばさないといけない。自分がもっと大きい選手になるためには、ああいうのを決められるように力をつけなきゃいけないんだって……、ずっと僕の頭のなかに残ったシーンです」

明神が今でも記憶にとどめる、20年前の悔恨である。

明神智和(みょうじん・ともかず)1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。

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