日韓W杯で歴史的2ゴールも「活躍した印象ない」 稲本潤一が語る名場面誕生の瞬間

「日韓W杯、20年後のレガシー」#11 稲本潤一の回顧録・第2回

2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

日韓W杯をリアルタイムで見た多くの人の脳裏には、金髪の日本人選手が人差し指を立て、歓喜を爆発させるシーンが深く刻まれているはずだ。22歳で国民的ヒーローとなった稲本潤一(現・南葛SC)は、20年が経った今、何を思うのか。「回顧録」第2回は、稲本の名を世界に轟かせたベルギー戦とロシア戦の2ゴールを振り返る。

◇ ◇ ◇

2002年日韓W杯、日本代表のグループリーグ初戦の相手はベルギーだった。第1シードの日本はある意味、抽選にも恵まれ、大会の入りとしては絶好の相手となり、運もあったとも言える。

日本は後半12分にベルギーに先制されるも慌てることなく、その2分後に鈴木隆行のつま先のゴールで追いついた。そして、稲本にとって最初の見せ場がやってくる。後半22分、中盤で相手のボールをカットすると、こぼれ球を拾った柳沢敦からのパスに鋭く抜け出し、DFをかわして左足で逆転ゴールを決めた。

「嬉しかったですね。点を取りたい気持ちだけに駆られて、ゴールに絡むプレーに集中していた。それがいきなり実現できたんで(笑)」

このまま逃げ切れば日本はW杯史上初勝利、勝ち点3を得ることができる――。その直後、フラット3の要にいた森岡隆三が負傷し、宮本恒靖と交代した。逃げ切る態勢に入ったが後半30分、ベルギーのコーナーキックの流れからオフサイドトラップがかからず、裏を取られて失点。初戦は2-2の引き分けに終わった。

左足の絶妙なタッチから生まれたロシア戦の決勝点

W杯というより普段の日本代表戦の延長という感覚

日本を初勝利に導いたゴールは周囲から称賛されたが、稲本はわりと冷静だった。

「初勝利のゴールですし、2試合連続というのでインパクトはありましたけど、自分自身はそこまで凄いとは思っていなかったです。確かに点を取った時の横浜国際の盛り上がりは凄かったけど、当時の日本代表の試合はどこも満員で、ワールドカップというよりもなんかその延長みたいな感じだったんです。今は代表の試合もなかなか満員にならないけど、偉そうですけど、当時はそれが当たり前の世界になっていたので、点を取れたのは嬉しいですけど、ワールドカップの舞台ですごく活躍したなという感じではなかったです」

それでも稲本のゴールが、日本を歴史的な勝利に導いたのは間違いなかった。1点に満足することなく、さらに点を取りたい気持ちを隠さずプレーしていく。それを後押ししてくれたのは、パートナーを組んだボランチの戸田和幸だった。 (第3回へ続く)

稲本潤一 / Junichi Inamoto

1979年9月18日生まれ、大阪府出身。ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、97年に当時のJリーグ最年少記録となる17歳6か月でデビューを果たす。年代別日本代表でも頭角を現し、99年ワールドユース準優勝、2000年シドニー五輪出場を経てA代表の主力に成長。迎えた02年日韓W杯では2ゴールを奪い、日本のベスト16進出に貢献した。W杯には3度出場し、日本代表通算82試合5得点。クラブでは01年のアーセナル移籍を皮切りに欧州7クラブを渡り歩き、10年に帰国後は川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原でプレーした。今年1月から関東サッカーリーグ1部の南葛SCに所属している。

佐藤 俊 1963年生まれ。

青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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