中田英寿と日本代表で初共演「スーパーマンが来た」 若き日の稲本潤一が受けた衝撃
「日韓W杯、20年後のレガシー」#3 稲本潤一の回顧録・第1回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
【注目】本気で野球に挑戦する親子必見! 各分野のプロが動画解説、日本最大級野球スキル動画配信サービス「TURNING POINT」の公式LINEはこちら
日韓W杯をリアルタイムで見た多くの人の脳裏には、金髪の日本人選手が人差し指を立て、歓喜を爆発させるシーンが深く刻まれているはずだ。22歳で国民的ヒーローとなった稲本潤一(現・南葛SC)は、20年が経った今、何を思うのか。「回顧録」第1回では、本大会に向けたチーム作りや中田英寿との関係性などについて語った。
◇ ◇ ◇
2002年日韓大会、稲本潤一は初戦のベルギー戦(2-2)、ロシア戦(1-0)と2試合連続でゴールを挙げて日本のW杯初勝利、グループリーグ突破に貢献した。ラッキーボーイ的な存在になったことで世界での知名度も上げるなど、自身のサッカー人生を大きく変えたと言っても過言ではない。そんな輝かしい舞台は、20年が経過した今、振り返るとどんなものだったのだろうか。
日本代表で最もフィリップ・トルシエ監督のことを理解していたのは、「黄金世代」と呼ばれた稲本たちの世代だった。トルシエは1999年のナイジェリア・ワールドユース(現U-20W杯)で大会直前に指揮を執り、FIFA主催の国際大会で初めて日本を準優勝に導いて以降、結果を出した若い選手を重用し、その流れは2000年シドニー五輪、そして日韓W杯へと続いていった。
ただ、当時のトルシエは非常にエキセントリックで、練習中に選手を怒鳴り倒したり、胸ぐらを掴んで威喝するなど、A代表で初めて顔を合わせた選手は面食らう時もあった。
「最初の頃は、いきなりキレるし、『なんやねん』と思いましたけど、ワールドユースの時から3年ずっと一緒にいましたからね。本気で怒っている時、人を見て怒鳴っている時も分かりましたし、監督のキャラクターや練習方法も分かっていた。U-20の時から、ほぼやることは変わらなかったですし、怒ってもまた始まったぐらいに思って、余裕でいなしていました(笑)」
カザフスタンでの五輪予選で確信「ヒデさん中心のチームになっていく」
日本代表のチーム作りは、ワールドユースからシドニー五輪、アジアカップ優勝という流れのなかで主軸が明確になり、完成されていった。そのなかでトルシエが一目置いていたのは、イタリア・セリエAでプレーしていた中田英寿だった。中田はシドニー五輪の最終予選の時に招集されたが、ホテルでは他の選手が相部屋なところを、1人部屋が与えられ、またメディアに対しても黙して語らずの姿勢を貫いていたので、稲本は気難しい人なのかなと思っていた。
【注目】本気で野球に挑戦する親子必見! 各分野のプロが動画解説、日本最大級野球スキル動画配信サービス「TURNING POINT」の公式LINEはこちら
「自分も最初、どんな人なんやろって様子見しながら接していたんですけど、メディアの人に対する態度と僕らに対する態度はまったく違いましたね。ヒデさんから僕らに降りてくることはあまりなかったですけど、僕らが行けば気軽に対応してくれて、めちゃ優しかったです」
中田は、肩書だけではなく、プレーでも稲本たちとの差を見せつけた。
「カザフスタンでの五輪の最終予選の試合にヒデさんが来て、いきなりゴールを決めたんです。もう、すごい衝撃で、スーパーマンが来たみたいな感じやった。凄すぎるわと思って、もうリスペクトし過ぎるぐらいしていました。これから五輪も日本代表もヒデさん中心のチームになっていくんやろなって思っていたし、みんなもそう思ったと思います」
中田を中心に日本代表のチーム作りが進行していくなか、稲本もボランチのポジションをほぼ手中に収め、確固たるものにしつつあった。日本代表でレギュラーを取ることにこだわり、執着したのには理由があった。
日韓W杯の前年、稲本は当時の指揮官だったアーセン・ベンゲルに声をかけられ、プレミアリーグの名門アーセナルへの移籍が実現した。だが、世界トップレベルの選手がひしめくチームにおいてなかなか出番が与えられず、シーズン後半は優勝争いをしていたこともあり、公式戦での出場はゼロに終わった。
アーセナルでの悔しさが原動力「結果を出して目立ってやろうと」
「アーセナルで試合にまったく出られなかったので、この悔しさを晴らすにはW杯に出て活躍するしかないと思っていました。W杯でしっかり結果を出して目立ってやろう、自分の名前を売ろう、世界に自分の名前を知ってもらおうという気持ちがすごく強かった。(2006年)ドイツ・ワールドカップ、(10年)南アフリカ・ワールドカップとは違うモチベーションが日韓の時にはありました」
【注目】本気で野球に挑戦する親子必見! 各分野のプロが動画解説、日本最大級野球スキル動画配信サービス「TURNING POINT」の公式LINEはこちら
プレミアリーグの公式戦で試合に出られなかった鬱憤をW杯の舞台で晴らすべく、稲本は代表に集中した。そうして、23名のW杯メンバーに順当に選出された。チームは調整期間に入り、初戦のベルギーについての情報が選手に伝えられる。
「ミーティングで聞いたけど、ベルギーが強いとか、ロシアが凄いとか、自分はまったく分かっていなかった。誰がどこのチームでやっているとかも知らないし、興味がなかった。正直、どこのチームが来てもやれるとしか思っていなかったし、自分のことしか考えていなかった」
W杯初戦のベルギー戦、稲本はベンゲルや世界に対して、やれることを証明していくことになる。
(第2回へ続く)
■稲本潤一 / Junichi Inamoto
1979年9月18日生まれ、大阪府出身。ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、97年に当時のJリーグ最年少記録となる17歳6か月でデビューを果たす。年代別日本代表でも頭角を現し、99年ワールドユース準優勝、2000年シドニー五輪出場を経てA代表の主力に成長。迎えた02年日韓W杯では2ゴールを奪い、日本のベスト16進出に貢献した。W杯には3度出場し、日本代表通算82試合5得点。クラブでは01年のアーセナル移籍を皮切りに欧州7クラブを渡り歩き、10年に帰国後は川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原でプレーした。今年1月から関東サッカーリーグ1部の南葛SCに所属している。