“中田にキレられた”宮本恒靖の言葉から紐解くW杯初勝利の裏側…“脱・フラット3”で勝ったロシア戦《20年前のマッチレポート》
サッカー日本代表がW杯初勝利を挙げたロシア戦(2002年6月9日)から今日でちょうど20年。試合直後のマッチレポートを特別に公開します。Sports Graphic Number臨時増刊号(2002年6月12日発売)『日韓W杯第2戦レポート 日本vsロシア「トゥルシエ・キッズの自立」』より(肩書きなどはすべて当時)。
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宮本の先発出場を告げる場内のアナウンスに、驚きの声は上がらなかった。それが、私には驚きだった。
脳裏にこびりついていたのは、ベルギー戦の終盤にあったワンシーンである。森岡の負傷によって急遽投入された宮本は、すでに70分をプレーしていた他のディフェンスラインのメンバーと明らかに息が合っていなかった。彼だけに責任があるわけではないが、2-1からの同点ゴールは、明らかにラインコントロールのミスだった。
しかし、同点に追いつかれてもなお宮本は浅いラインを敷こうとしていた。
彼はセンターバックとしては決して体格に恵まれている方ではない。ゴール前でのヘディングの競り合いを避けたい、少しでも自陣のゴールから遠いところで相手の攻撃の芽を摘み取りたいとの気持ちは痛いほどわかった。だが、他のディフェンダーたちの考えは違った。70分を戦ったことで、彼らはサイドを深くえぐられないかぎり、大柄なベルギーといえどもさして恐れる必要がないということがわかってきていた。
勝ち点を獲得するためには、もう1点も与えるわけにはいかない。日本選手たちがめざすものは同じだった。ただ、そのためにどうするベきかという万法論は、選手によって違った。はっきり言えば、宮本だけが違っていた。
それを、中田が怒っていたのだ。
それが、私には忘れられなかった。
血相を変えて怒鳴っていた中田
中田英寿が味方を叱責するのであれば、私もそうは驚かなかっただろう。だが、ラインをあげようとする宮本に、血相を変えて怒鳴っていたのは中田浩二だった。幸い、以後、ベルギーの攻撃が日本ゴールを脅かすことはなかったものの、生命線とも言えるディフェンスラインに明らかな考え方の違いが横たわっていることに、私は強いショックを受けてしまった。
だから私は、記者に配られるスターティングメンバーのリストに森岡の名前がないことに気づいた瞬間、思わず素っ頓狂な呻き声をあげてしまった。おそらく、そうした反応は私だけに限った話ではなかったのだろう。通りかかったフリーのライター仲間は、「やっと気づいたのか」とばかりに苦笑を浮かべていた。
だが、間接的に森岡の欠場を伝えることになる宮本の名前に、場内は何の反応も示さなかった。ファンは何の不安も感じていないのか。それとも、不安を押し隠しているだけなのか。その答えを推し量りかねているうちに、キックオフの笛が鳴った。
大舞台で結果を出すことによって、選手はそれまでとはまるで別の次元に足を踏み入れることがある。それは十分にわかっていたつもりだった。しかし、まさか今大会の日本にそうした選手が出現しようとは、率直にいって予想外だった。もちろん、出現してほしい、出現してくれなければ苦しいとは考えていたのだが、こればかりはいくら願ったところでかなうものではない。私は、この試合をそうした選手が出現しないという前提で考えていた。当然、予想は大苦戦だった。
ところが、信じられないほどの幸運に恵まれたベルギー戦の引き分けによって、日本代表はワールドカップ以前の日本代表とは別のチームになっていた。一人の選手の劇的な変化と、多くの選手の勝ち得た自信によって、日本代表はここ4年間で遂げてきたよりもはるかに大きな変化を遂げていた。試合開始早々、私はそのことを思い知らされる。
前半4分、彼が強烈なミドルシュートを放った段階では、私はまだ「今日は硬さがないな」ぐらいにしか感じなかった。だが、その2分後、小野のフリーキックに飛び込んだあたりで「おや」と思い、27分、中田英寿の左ボレーがバーを越えた時点で「もしや」となった。シュートにつながるボールをゴール前から戻そうとしたのは、本来中田英寿よりも後方に位置しているはずの稲本だったからである。
ベルギー戦の逆転ゴールと幻の3点目
稲本がまだユース代表の選手だった頃、ガンバ大阪のサポーターは彼に「帝王」なるニックネームを授けていた。彼のプレーを見れば、それも十分に納得できた。「ボランチ」などというプラジルと日本以外では通用しないポジション名で片づけてしまうのが惜しくなってしまうぐらい、その視野の広さと攻撃カ、そして存在感は際立っていたからである。
しかし、ここ最近、私は彼がそんなニックネームで呼ばれていたこと自体を忘れかけていた。5月のノルウェー戦やスウェーデン戦での稲本は、まったく存在感がなかったばかりか、ボールにからむ回数からして激減していたからである。アーセナルで試合にほとんど出場していないデメリットを、ワールドカップ直前の稲本は隠しきれずにいた。
ところが、ベルギー戦の逆転ゴールと幻の3点目が、稲本を数週間前とは別の選手に変えていた。開幕直前のテストマッチ数試合で私を絶望的な気分にさせた、ボールを奪ってからの反応の遅さは、そんなことがあったというのが信じられないぐらい劇的に変化を遂げていた。21分、右サイドで柳沢がオノプコを追った時、一番早くゴール前への動きだしを始めていたのは稲本だった。その反応は、これまでの日本代表の中ではずば抜けて速かった中田英寿の反応よりも速かった。
中田英寿頼みを危惧されたチームは、たった数日間で、新たな大黒柱を獲得していた。しかも、相棒の変貌ぶりを信頼したのか、稲本が攻撃態勢に入ると、必ずといっていいほど中田英寿は守りを意識したポジション取りをしていた。「パルマでやってきたことが日本代表でも生きると思う」との言葉は、おそらくは中田自身も予想しなかった形で現実のものとなった。
中盤に2つの核をえた日本は、H組で最強ではないかと言われたロシアを相手に、堂々がっぷり四つに組んでの戦いを展開する。前線では鈴木が献身的に走り回って反則を誘い、守っては戸田がウルグアイ人も顔負けの老獪な駆け引きで相手の攻撃をくい止める。もちろん、ピンチがなかったわけではない。32分、39分とヒヤリとする場面はあった。しかし、中国を相手にしたブラジルがピンチを迎えることもあるのがサッカーである。前半の日本の出来は、まず申し分ないものといってよかった。
ベルギー戦の同点ゴールを見ても明らかなように、サッカーでは、流れとは無関係に唐突なゴールが生まれることがままある。しかし、この日のゴールは、前半の流れを受けた必然のゴールだった。中田浩二からのパスが柳沢に通った時、もっとも近い位置、つまりゴールを狙える位置に走り込んでいたのは、前半に何度も反応の速さを見せていた稲本だったからである。守備的なポジションを任されながら、ベルギー戦でつかんだ勢いと自信に身をゆだね、再三にわたって中田英寿を追い越して攻撃参加を試みていた稲本だったがゆえに生まれたゴールだった。
意外だった指揮官のガッツポーズ
意外だったのは、ゴール直後のトゥルシエ監督の表情である。ベルギー戦では半ば狂乱状態に陥っていた指揮官が、この日は十分に抑制の利いたガッツポーズしか出さなかった。ポーランド戦で先制した直後の韓国・ヒディンク監督の表情に比べると、あまりに無邪気だった数日前の姿はもはやどこにもなかった。彼もまた、ベルギー戦から大きな自信と経験を得ていたということなのだろう。
先制点を奪ったことで、日本選手にはさらなる余裕が生まれ、逆にロシアには、この1点が重くのしかかった。サン・ドニでのフランス戦が典型的な例だが、拮抗した状態が続いているのであれば、このチームは信じられないほどの粘り強さを見せる。しかしこの日、堤防は決壊してしまった。満員の観衆がかもし出す異様なムードに気圧されたか、ドイツ人のメルク主審が吹く笛はやや日本よりで、いきりたつ彼らのハードな肉体接触は、ことごとく日本のフリーキックに変わった。場内が先制ゴールの余韻に揺れていた57分、交代出場のベスチャツニフが決定的な場面をつかんだのを最後に、ロシアの攻めは鋭さを失っていった。
72分、トゥルシエ監督はまだ十分に動けそうだった鈴木に代えて中山を投入した。戦術的な意味あいはともかく、この交代によってスタンドの雰囲気はさらに盛り上がり、焦りの見えてきたロシア選手たちの精神状態をさらに苦境へと追いやった。この4年間で私が初めて見た、トゥルシエ監督の効果的な選手交代だった。
「ラインをあげすぎないように気をつけてプレーしました」
試合後、記者団に囲まれた宮本はそう語ったという。私は、稲妻にうたれたような思いがした。
私の見る宮本は、トゥルシエ監督の要求にもっとも忠実に応えようとしている選手だった。
だが、この日の宮本は違った。
キャッチフレーズの好きなメディアは、ロシアを0点に抑えたことを「フラット3の勝利」とでも伝えるかもしれない。しかし、この日の日本のディフェンスラインは、断じてフラットではなかった。時に中田浩二が、時に松田が、そして時に宮本が下がり目のポジションを取り、十分に深みのある網を張りめぐらせていた。それが、稲本の変貌と並ぶもうひとつの大きな勝因だった。
これで、日本の勝ち点は4になった。
実をいうと、私の中にはドーハでの韓国戦が終わった直後、あるいはイラク戦のロスタイムに入ろうとしていた時と似た思いが芽生えてきている。ワールドカップって、こんなに簡単なものだったのだろうか。いまの日本が決勝トーナメントに行ってしまっていいのだろうか、という思いである。勝利を願う切実な欲求と、勝利をつかもうとしているのが信じられないという不安が、私の中でせめぎ合っている。
だがこの日、横浜で見た日本代表は、私の知らない日本代表だった。トゥルシエはトゥルシエでなくなり、選手はトゥルシエから自立し始めている。悪い流れではない、そう思いたがっている自分がいるのも事実である。
◆Sports Graphic Number臨時増刊号(2002年6月12日発売)『日韓W杯第2戦レポート 日本vsロシア「トゥルシエ・キッズの自立」』より