大黒将志の人生を変えた一発。「神様、仏様、大黒様」一夜にして国民的ヒーローになった
W杯最終予選で日本を救った一撃日本2-1北朝鮮(2005年2月9日)~大黒将志(後編)
2005年2月9日、大黒将志は一夜にして国民的ヒーローとなっていた。 「自分にとっても、あれはすごく大きなゴールでした。ワールドカップにも行きましたし、そのメンバーに入れたのも、あれがきっかけというか。そういう意味でも、すごく重要なゴールだったと思います」
だが、大黒にしてみれば、FWの仕事をやり遂げた充実感こそあっても、ワールドカップ最終予選をそれほど特別なものと実感することはなかった。 「僕にとってはJリーグの試合も、代表の試合も、プロの試合はどの試合も全部大事。FWが生き残るには点をとらないといけないとはずっと思っていたんで、そこだけですよね。
だから、最終予選っていうのも別に……、代表で普通に練習していて、みんなメチャクチャうまかったんで、突破できひんとか、そういう不安はまったくなくて、絶対勝てるやろなと思っていましたから」
だからだろうか、戦い終えた大黒は勝利の余韻に浸ることもなく、Jリーグ開幕に備え、ガンバ大阪のキャンプに合流。「すぐにプレーできる状態を作れるように、入ったその日の夜からジョギングにいきましたね」。
神様、仏様、大黒様――。そんなフレーズとともに、時の人となった大黒だったが、自身は「浮つくこともなく、マイペースでずっとやっていました」。
とはいえ、周囲は彼を放っておいてはくれなかった。大黒は「僕を知っている人がすごい増えたっていうか、周りはいろいろ変わりました」と、苦笑いで振り返る。
「代表で1点とることの効果の大きさには、ちょっとビックリしました。Jリーグで20点入れても誰も知らんのに、『そんなに一気に(自分を)知ってる人が増える?』みたいな感じ。それまでは、大阪でも声を掛けられるとかもなかったですよ。それが東京駅とかで、知らない人に『あっ!』とか言われて、こっちは『えっ?』みたいな(笑)」
日本を救う劇的なゴールをきっかけに代表メンバーに定着した大黒は、この最終予選全6試合のうち4試合に出場。日本がワールドカップ出場を決めたアウェーの北朝鮮戦(中立地のタイ・バンコクで無観客試合として開催)でも、勝利を決定づける2点目のゴールを決めている。
大黒自身、「やっぱり、初ゴールのほうが印象は強い」とは言うものの、このゴール――DFラインの背後へ抜け出し、最後は右足のシュートフェイントでGKを完璧に抜き去った――もまた、非常に価値あるものとして記憶に残っている。
「あの2点目のゴールは、抜け出したあと、最初はもうシュートを打とうと思ったんですけど、あそこで(打つのを)止められたのがよかったと思います。ガンバの下部組織で『判断を変えられる選手がいい選手』って教えられていたんで、ああいうとこはやっぱり上野山(信行)さんとか、ガンバの指導者の方々のおかげという思いが、今はもちろん、当時からありました」
いわば、大黒に始まり、大黒に終わった最終予選。
決して出場時間は多くなかったが、代表で過ごす日々がどれほど充実していたかは、当時を語る大黒の楽しげな様子で明らかだ。
「紅白戦でもよく点を入れていました。Aチーム対Bチームで試合をするんですけど、そのBチームがまたうまいんですよ(笑)。ヤット(遠藤保仁)さんがBチームにいるくらいなんでね。(中田)浩二くんとか、本山(雅志)さんとか、メチャクチャうまくて、すごく楽しくやっていました」
チームメイトだけではない。大黒にとってはジーコ監督もまた、とても相性のいい指揮官だった。
「細かいことを言わず、いつも『点をとってきてくれ』って言ってくれて。僕、そういう監督が好きなんです(笑)」
ただし、”サッカーの神様”の下でプレーしながら、少々残念に思っていたこともある。
「ジーコさんが監督なんで、僕、『シュートはこうやって打つねん』みたいな感じでもっと教えてもらえるのを期待していたんですけど、あんまりそういうのがなくて(笑)。ジーコさんに直接教えてもらえる機会なんて、ガンバにいるとなかなかないんで、単純にもうちょっと教えてもらいたかったっていうのはありますね」
Jリーグでの2005年シーズンを終え、グルノーブル(フランス)への移籍を決断したのも、代表を経験したことが大きく影響していた。
「代表で海外組の人たちと話すなかで、自分も海外でやってみたいっていう思いがすごく湧いてきたというか、どんどん膨らんできた。そこでちょうどオファーもいただいて、今後のためにもなるって思ったし、単純にもっとレベルの高いところでやりたかったこともあって、ガンバと話をして行かしてもらうことになりました」
なかでも一番の相談相手は、中田英寿だった。
大黒は「ヒデさんに相談して、行けるんやったら行ったほうがいい、と言ってもらった」ことで、強く背中を押されたという。
「昔からヒデさんを知っている人は、ちょっと気を使っている部分があったと思うんですけど、僕はヒデさんと話せる機会もなかなかないですし、いろんな話を聞きたかったんであんまり気を使わず、食事の時にヒデさんの前の席が空いていたら一緒にご飯を食べて、サッカー以外にも車の話とか、いろんな話をして仲良くしてもらいました。(海外移籍の時には)代理人も紹介してもらいましたし、こっちから聞いていけば、何でも教えてくれますし。面倒見のいいやさしい人で、すごく感謝しています」
いくつもの国内外のクラブで活躍してきた大黒も、今年1月、40歳で現役引退を発表。現在は、自らも育った古巣ガンバのアカデミー(育成組織)でコーチを務めている。
「自分が経験してきたこと全部が(指導の)ベースになっています」 そう話す”大黒コーチ”の目に、現在の日本代表はどう映っているのだろうか。
「僕なんかはFWをやっていたので、(今の日本代表と比べて)当時の中盤の選手はもっとクオリティが高かったというか、昔のほうがもっといいスルーパスが出ていたような感じはします。今の代表でも、出し手と受け手のタイミングをもっと合わせていけば、もっとシンプルに点が入るんちゃうかなと思いますけど」
FW目線でそう話す大黒は、先頃の最終予選2試合についても、こんな感想を口にした。
「(初戦の)オマーン戦はガンバのホーム(吹田スタジアムでの試合)やったんで、僕も見に行ったんですけど、正直、ちょっと点が入りそうな雰囲気はないなと思いました。ターンできるところでターンしないとか、チャンスが来てもシュートを打たないとか、ゴールに向かっていない感じやったんで。やっぱりゴールを目指して、もっと怖いプレーを増やさないといけないなっていう感じはしました。 (2戦目の)中国戦なんかは、ゴールに向かう姿勢っていうか、ゴールをとるんやっていうプレーが多かったと思いますし、それだけで全然違いますよね。
例えば、久保(建英)くんなんかが前を向いて(ボールを)持った時に、ちょっと遠いかもしれんけど、2対1ができているっていうか。(FWの選手は)自分をマークしているヤツと久保くんとの間で2対1ができているんであれば、背後をとりに行くとか、プルアウェーしてパスコース作るとか、そういうことだけで、たぶんゴールになるんちゃうかなっていう感じはしますけどね」
最終予選ならではの難しさ――日本代表の苦戦は、そんな言葉で語られることがある。 精神的プレッシャー、相手チームの闘争心など、そこにはさまざまな要素が含まれるのだろうが、大黒自身が最終予選で感じた難しさとは、どんなものだったのだろうか。
そんなことを尋ねてみると、16年前のヒーローは「”ならではの難しさ”って、僕、あんまりよくわからないんです」と即答し、首をひねった。
「なぜかっていうと、(W杯には)絶対出られると思っていたから。みんなうまかったから、(どこと対戦しても)『これ、絶対勝てるな』って思っていたんで」
当時の最終予選の組み合わせは、日本の他、イラン、バーレーン、北朝鮮の4カ国。そこでホームアンドアウエーの総当たりを行ない、上位2カ国が出場権を獲得できた。大黒曰く、「組み合わせを見た時に、下(の2カ国)になるっていうイメージはまったくなかった」。
「ドーハの悲劇(1994年アメリカ大会予選)とか、ジョホールバル(1998年フランス大会予選)とかの頃は、アジア枠が2とか、3とかやったけど、4やったら、ほぼほぼ行ける。ジョホールバルの時みたいに(グループの)1位しか行けないとなると、すごくプレッシャーがかかると思うんですけど、2位以内に入ればいいわけで。それって普通にやれば、そんなに難しくないことやと思いますけど」
それは、自身の経験からだけの話ではない。現在進行中の最終予選を見ていても、その印象が大きく変わることはない。
「今も、日本が普通にやれば普通に勝てると思うんですけどね。十分いい選手がそろっていますし。うまいだけでもあかんかもしれないけど、そこは戦える選手も置いてバランスを見ながらやれば、何の問題もない。
コンディションがよくて、パフォーマンスがいい選手を並べていけば、アジアのなかでは地力で勝っている。そこで変なことをしなければ、僕は問題ないんじゃないかなと思いますけど……、どう思います?」
大黒将志(おおぐろ・まさし)1980年5月4日生まれ。大阪府出身。2021年1月に現役引退。現在はガンバ大阪のアカデミーストライカーコーチを務める。2006年W杯ドイツ大会出場。国際Aマッチ出場22試合。5得点。