ジーコジャパンを土壇場で救った大黒将志の劇的ゴール「パスが来る確信があった」

W杯最終予選で日本を救った一撃
日本2-1北朝鮮(2005年2月9日)
~大黒将志(前編)

W杯アジア最終予選において、ラクな試合などひとつもない。つまり、W杯出場切符を獲得することは、決して簡単なことではないのだ。ゆえに、現在6大会連続でW杯出場を決めている日本であっても、最終予選では何度となくピンチを迎えてきた。しかしそのつど、日本代表を救う劇的なゴールを決めてきた選手がいる。ここでは、そんな”大仕事”を果たした男たちにスポットを当てる――。

2005年2月9日、埼玉スタジアム。

スタンドを埋めたおよそ6万人の観衆は、刻一刻と90分に近づく時計に目をやりながら、焦りとともにピッチを見つめていたに違いない。

翌年ドイツで開かれるワールドカップ出場をかけたアジア最終予選。日本はその初戦で、北朝鮮を相手に苦戦を強いられていた。

試合は1-1で後半ロスタイムに突入。このまま引き分けに終わるのか――。そんな窮地から日本を救ったのは、大黒将志の代表初ゴールだった。

勝利の立役者となった大黒は、この時の一連の活動が日本代表初招集。10日ほど前に代表デビューを果たしたばかりで、この北朝鮮戦が2試合目の出場だった。

シンデレラボーイ誕生の劇的瞬間を、大黒の回想とともに振り返る。

◆        ◆        ◆

2004年、充実のシーズンを過ごした大黒は、初めてJリーグベスト11に選ばれていた。

大黒はJ1得点ランク2位となる自己最多の20ゴールを記録。得点王となったエメルソン(浦和レッズ)の27ゴールには及ばなかったが、日本人選手ではただひとりの”大台”到達だった。

年明けの2005年1月に始まる日本代表合宿へ向け、年末に発表された代表メンバーに大黒の名前はなかったが、自身は「代表はあまり気にしてなかった。『これで選ばれへんのやったらしゃあないな』みたいな感じだった」。

ところが年が明け、ふいに受けた1本の電話が状況を一変させた。電話の相手はガンバ大阪強化部の梶居勝志。「代表に選ばれたからな」。負傷で日本代表離脱が決まった久保竜彦に代わる、追加招集の知らせだった。

「ちょっとビックリしたのを覚えています」

大黒はそう言い、「でも」とつないで、当時を振り返る。

「僕、オフの時はいつもそんなに休み倒している感じじゃない。わりと走ったりしているほうなんで、合宿に合流したあともフィジカル的なコンディションがすごくよかったし、代表の選手たちもすごく優しかったんで、すんなり入れました」

ひと足遅れで合流した初めての日本代表。大黒がそこで強く感じたのは、「ホントにうまい選手ばっかり」だったことだ。

「僕がゴールするためには味方の特長を知るのがすごく大事なので、特に中盤の選手の特長をつかもうとしたんですが、(小笠原)満男さん、ヤット(遠藤保仁)さんと、ホントにいい選手ばかりでやりやすかった。オフサイドにならないように――それだけ気をつければ、自分のタイミングで動き出すだけでパスは出てくる。あとはシュート練習をして、来たチャンスを決められるように準備しておくだけっていう感じでした」

のちに詳述する北朝鮮戦では、海外組の中村俊輔は試合前日、同じく高原直泰は2日前に帰国するという強行日程でのチーム合流だった。つまりは、大黒はほとんど一緒に練習する機会がなかったのだが、それでも「不安はまったくなかったです」。

「あれぐらいうまい選手になると、こっちがほしいところに絶対ボールが来ますし、わかり合える。(中村)憲剛とかもそうですけど、ああいう人たちは、顔が上がっている状況の時にこっちがいい動きをすれば、絶対ボールが出てくるんで、そりゃ、やりやすいですよね」

当時は「ラッキーなことに、結構(試合も含めて約3週間という)合宿期間があった」ことも、大黒にとっては幸いした。

「練習試合もいくつかあって、とにかく自分の特長はゴールすることだと思っていたんで、そこでゴールしまくっていたんです」

すると、大黒は1月29日に行なわれたカザフスタンとの親善試合(4-0)に、77分から途中出場。代表初招集後の初戦にして、早くも出場機会が巡ってきた。

記念すべき初代表の背番号は31。「僕のなかで31番は”ミスタータイガース”やったんで。掛布(雅之)さんの番号もらえた、みたいな」。

そう言って笑う大黒も「若干緊張した(苦笑)」と語る、日本代表デビュー戦である。

「まだ1月でJリーグもやってなくて、その年の1試合目っていうのもあったし、ちょっと硬かった。もっとリラックスしてやんないとボールも止まんない。そういう反省を生かして、次はやろうとは思いましたね」

だが、続く2月2日のシリアとの親善試合(3-0)では、出番なし。大黒は国際Aマッチ出場「1」の記録だけを携えて、初めての最終予選、北朝鮮戦へ向かうことになった。

当時の最終予選は現在とは異なり、規定のベンチ入りメンバーは18人。すなわち、その時点での招集メンバー24人から6人が外れることを意味していた。

しかもジーコ監督は、いつも試合会場のロッカールームでメンバーを発表するため、「(メンバーに)入ってるか入ってへんかが、スタジアムへ行くまでわからなかった」と大黒。さぞかし気をもんだのかと思いきや、「そこはあまり気にしていませんでした」。

「僕、いつもそうなんですけど、メンバーに入ったらやるだけですし、入らなくてもチームのサポートをするだけですし。入ろうが入るまいが、それまでにやるべきことをいつも同じように準備していました」

とはいえ、大黒にメンバー入りの手ごたえがなかったわけでもない。

「その(北朝鮮戦)直前にも大宮ユースと練習試合があったんですけど、そこで点を取り倒した(ハットトリック)んで、たぶんジーコさんも選んでくれたんやと思います」

はたして、数週間前に初招集されたばかりの、それも追加招集だった”第4のFW”は、最終予選本番でもベンチ入りとなったのである。

「カザフスタン戦で代表の試合がどういうもんかはつかめていたんで、あとは自分に足りないのはゴールやな、と。やるしかない、と思っていました」

大黒は北朝鮮戦に臨むにあたり、「自分が出るとしたら」と、ふたつのパターンを想定していた。

ひとつは、日本が大量得点で大きくリードした時。もうひとつは、日本が負けているか、引き分けているかで得点が必要な時、である。

「1-0とかで勝っていたら、たぶん(途中交代で)ディフェンスや中盤の選手を入れるので、FWは出さないですよね。だから、そのどっちかしかないと思っていました」

試合は、開始4分にして小笠原がFKを直接決め、日本が先制するも、その後は北朝鮮の激しい守備に手を焼く展開が続いた。

「1-0で勝っていた時は、『これ、(北朝鮮が)点入れへんかったら、今日は出えへんやろな』って。でも『まあ、入るかもしれんから準備しとこ』と思っていました。相手のGKは大きいけど、足元が弱いとか、そういうのを見ながら準備していたって感じでした」

すると、日本は追加点を奪うどころか、次第にカウンターを受ける機会が増え、後半61分に同点ゴールを許してしまう。

「あ、これは(出番が)あるかもしれんな」。図らずも試合は、大黒が出番を想定した状況へ動き始めた。

思わぬ展開に、ジーコ監督は64分に高原を、66分には中村俊を立て続けに送り出す。

「タカ(高原)さんがベンチにいたんで、『まずタカさんがいくやろな』って、そこまで予想できていましたね。『それで(ゴールが)入らんかったら、たぶん(自分が)いくやろな』って」

切り札である海外組のふたりを投入してもなお、1点が遠い状況に79分、ベンチ脇でアップを続けていた大黒に声がかかる。

「『来た!』って感じでした。状況も整理できているし、味方の特長は全員つかんでいた。そういうなかで出していただけたんで、何も不安はなかったです」

残り試合時間は、ロスタイムを含めても15分足らず。それでも「僕が入る前も、タカさんがヘディングシュートしたり、惜しい場面があった。そこまではボールを持っていけていたんで、残り10分ぐらいあればビッグチャンスが1回もないってことは絶対ない。その1回を決めよう」。そんな思いを抱え、大黒はピッチへと飛び出した。

しかし、一度こう着した試合を解きほぐすのは難しい。大黒はボールに絡むもシュートまでは持ち込めないまま、時間ばかりが過ぎていく。電光掲示板の時間表示は90分を示すと同時に消え、あとは3分のロスタイムを残すのみとなっていた。

「当たり前ですけど、サッカーは試合終了の笛が鳴れば終わり。それまでは全力でやるだけなんで。1回くらいは時計を見ましたけど、その後は見ていませんでした」

そして迎えた90+2分、ゴールを目指すことだけに集中していた大黒に、待望の瞬間が訪れる。

右サイドに開いていた小笠原がゴール前へクロスを送ると、北朝鮮GKがこれをパンチング。弾いたボールは、ペナルティーアーク近くに立つ福西崇史の足元へ飛んだ。

大黒が述懐する。

「練習でミニゲームをやっても、フク(福西)さんとマツ(松田直樹)さんのふたりがメチャクチャうまかったんですよね。だから、ああいうとこでも下手な選手やったらシュートをふかして終わるんですけど、フクさんやったら絶対パスしてくると思ったんです。そういう確信があったというか。だから、ゴールのほうに体を半分向けて待っていました」

点取り屋の嗅覚、とでも言おうか。確信したとおりに福西からのパスがやってくると、大黒は躊躇なく時計回りに体をひねり、左足を振った。

「GKがデカくて、下が弱いのもわかっていたんで、シュートを打つんやったらグラウンダーやなっていう意識でした。絶対下に叩こうと思っていました」

大黒のひと振りで芝に弾んだボールが、北朝鮮GKとDFの間をすり抜ける。ゴールネットが揺れたと同時に駆け出した背番号31は、たちまち歓喜の渦に飲み込まれた。

2-1。勝負が決した瞬間だった。

だが、殊勲のゴールを沈めた当の本人は、誰もが勝利を確信したその瞬間のことを、あまりに意外な言葉で振り返る。

それは土壇場で勝負強さを発揮することのできた、ストライカーの矜持である。

「僕、あの時1点とって、まだ2点目を狙っていましたからね(笑)。相手はガクンッてなっていたんで、あと何分かあったら、たぶんもう1点いけたんちゃうかな。もし4点入れていたとしても5点目を狙っている。FWなんで、ず~っと狙い続ける。時間とか、点差とか、関係ないんです」

大黒将志(おおぐろ・まさし)
1980年5月4日生まれ。大阪府出身。2021年1月に現役引退。現在はガンバ大阪のアカデミーストライカーコーチを務める。2006年W杯ドイツ大会出場。国際Aマッチ出場22試合。5得点。

リンク元

Share Button