PK戦制し4強進出!GK谷晃生の“神セーブ”裏に恩師と”レジェンド”川口能活の教えあり…「ヒーローになってこい!」
半世紀以上もの歳月を乗り越えての五輪のメダル獲りへ、PK戦にもつれ込む熱戦を制した男子サッカーのU-24日本代表がついに王手をかけた。 東京五輪9日目の31日に県立カシマサッカースタジアムで行われた、U-24ニュージーランド代表との準々決勝。延長戦を含めた120分間を終えても0-0で決着がつかず、突入したPK戦で20歳のGK谷晃生(湘南ベルマーレ)が相手の2人目をストップ。流れを引き寄せた日本が4-2で制し、2大会ぶり3度目のベスト4進出を決めた。 銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪以来、53年ぶりとなるメダル確定がかかる3日の準決勝では、優勝候補のU-24スペイン代表と埼玉スタジアムで対戦する。
感情をコントロールして2本目を止める
天国と地獄とが背中合わせになるPK戦。日本が前者へと進む扉をこじ開けるファインセーブを演じても、20歳の守護神はガッツポーズすら作らなかった。 先蹴りのニュージーランドの2人目。ほとんど助走を取らないDFリベラト・カケースが、左足をコンパクトに振り抜いた。対峙するキーパーに的を絞らせない工夫が重ねられても、谷はゴール左隅へ低く飛んでくる弾道を完璧に読み切っていた。
両手で鮮やかに弾き返すと、3人目のMFクレエートン・ルイスが狙った右隅へのコースにもしっかりと反応する。ダイブしながら右腕を上へ伸ばす谷の動きが視界に入った影響からか。ルイスの一撃はクロスバーの上を大きく超えていった。
重圧がかかるキッカーを志願したFW上田綺世(鹿島アントラーズ)、DF板倉滉(フローニンゲン)、DF中山雄太(ズヴォレ)がすべて相手キーパーの逆を突いて成功させる。続く4人目のキャプテン、DF吉田麻也(サンプドリア)は「結果は神のみぞ知る」と、事前に蹴るコースを左隅に決めていた。成功させた胸中を試合後にこう明かしている。
「コウセイ(谷)が2本止めていたので、正直、1本外してもいいか、という気持ちでした」
実際に止めたのはひとつだが、12ヤード(約11メートル)先で谷が放つオーラがルイスの失敗を誘ったと吉田は言いたかったのだろう。日本をベスト4へ導いた立役者は、駆け寄ってくる仲間たちに囲まれた輪の中心で初めて笑顔を弾けさせた。
「(2本目は)タイミングがばっちり合いました。120分間を通して難しいゲームになりましたけど、守備を無失点で終わらせたことでPK戦での勝利につながったと思います」
勝利が決まるまでいっさいの感情を封印したのには理由がある。高校3年への進級前にガンバ大阪ユースからトップチームへ昇格するも、故障禍で思うようなパフォーマンスを発揮できず、苛立つ気持ちを立ち居振る舞いに反映させていた時期に、当時主戦場にしていたガンバ大阪U-23の森下仁志監督(現ガンバ大阪ユース監督)から金言をもらった。
「感情をしっかりコントロールしろと森下さんから言われました。持っているものがあるのだから、そうすれば絶対にそれを試合で発揮できる、と」
感情をコントロールする術はPK戦へ突入する直前、緊張と興奮、不安と重圧とが交錯する場面でも谷を支えた。ニュージーランドのキッカーたちの情報が記された紙を手にした、川口能活ゴールキーパーコーチと作戦を確認しあっているときだった。
「でも、一度に覚えきれなかったというか。そのときに能活さんから『最後はお前の判断で自信を持ってプレーすれば絶対に止められる』と言われて。さらに『ヒーローになって来い』と送り出してもらえたので、そうなろうと思ってプレーしました」
PK戦が迫ってくる状況で、情報をすべてインプットできない不安を表情に出さなかった谷の姿に、川口コーチはあれこれ言うのではなく背中を押そうと決めた。谷のなかでも川口コーチの檄が、かつて森下氏からもらった金言と合致していた。
大阪・堺市で生まれ育った谷は幼稚園の年長で、兄の背中を追うようにボールを追いかけ始めた。キーパーとの出会いは小学校3年。兄が所属していたクラブで試合をするのに人数が足りず、たまたま観戦に来ていた谷が借り出された。実業団の元バレーボール選手だった母親の真由美さんの遺伝で、当時の谷はすでに身長が高かった。
「それまではいろいろなポジションでプレーしていましたけど、キーパーをしてみたら意外と面白くて。小学校4年生からは、キーパーのスクールに通ったりしていました」
狭き門であるセレクションに合格し、ガンバ大阪ジュニアユースの一員になるも、堺市内の自宅と万博公園内のガンバの練習場とは電車で片道2時間ほどを要する。夕方から行われる練習を終えて帰宅するころには、常に日付が変わる直前だった。
プロを夢見て必死に頑張っていた谷を、サポートしたのが真由美さんだった。自らも仕事を抱えながら愛車のハンドルを握り、ユースに昇格して寮に入るまで谷を送迎した。
「車だと1時間かかるかどうかなので。眠るのも大切だと思っていたなかで、睡眠時間を確保できたことでここまで身長も高くなったと思うと、本当に感謝しかありません」
笑顔でジュニアユース時代を振り返る谷は、いまでは身長190cm体重84kgと恵まれた体躯を誇る。しかし、将来を嘱望されながら飛び級で昇格したトップチームでは、ワールドカップ代表メンバーにも名を連ねた東口順昭の後塵を拝し続けた。
2018、2019シーズンで公式戦のピッチに立ったのは一度だけ。U-23チームが参戦していたJ3でプレーはできる。日々の練習では東口の一挙手一投足も注視できる。それでも2019シーズン後に届いた、湘南からの期限付き移籍のオファーを承諾した。
「ガンバでの2年間は本当に充実していたし、いまの自分があるために必要な時間だったと思っています。でも、サッカー選手としてトップレベルの試合に出ることが一番重要だと思ったので、外の空気を吸う、じゃないですけど、誰も僕のことを知らず、僕自身も誰も知らないチームで、サッカー選手としての自分を試したかったんです」
湘南での競争を勝ち抜いた谷は、昨年7月の鹿島戦でJ1リーグ戦デビュー。1-0の完封勝利に貢献するとそのまま定位置を確保し、期限付き移籍をさらに1年間延長し、背番号も「25」から「1」に変えた今シーズンもゴールマウスに君臨している。
トップカテゴリーでの戦いを介して解き放たれ始めた谷のポテンシャルは、東京五輪世代となる年代別代表における序列をも覆させた。今年3月のU-24アルゼンチン代表との国際親善試合で念願のデビュー。3-0の完封勝利を最後尾で支えると、長く守護神を担ってきた大迫敬介(サンフレッチェ広島)から一気にポジションを奪い取った。
谷と同じ20歳で出場した1996年のアトランタ五輪で、王国ブラジルを撃破した「マイアミの奇跡」の主役の一人になったレジェンド、川口氏は2018シーズン限りで現役を引退。翌年からは東京五輪世代を含めた年代別代表のキーパーを指導してきたなかで、谷に関して「ずっと注目していた」と語ったことがある。
「細部までこだわることの重要さを、能活さんからは言われています。練習でやれなければ試合でもできない。キャッチするのか、弾くのか。弾くならばどこに弾くのか。ポジショニングも含めて、試合を意識しながら練習のなかで落とし込めていると思う」
大迫、鈴木彩艶(浦和レッズ)とともにU-24代表に選出され、東京五輪へ向けて本格的に受けるようになった川口コーチの指導を、谷は笑顔で振り返ったことがある。
負ければ終わりのニュージーランド戦でも、ハイボールの処理や最後尾からのビルドアップで日本に安定感をもたらし、どちらに転ぶかわからないPK戦でヒーローになった。
「次も難しいゲームになると思いますけど、自分がしっかりと仕事をしてチームを勝利に導けるように、今日からしっかり切り替えて最善の準備をしていきたい」
谷が見すえたU-24スペイン代表とは、東京五輪前の最後の強化試合として、2週間前にノエビアスタジアム神戸で顔を合わせている。結果は1-1の引き分けだったが、谷をはじめとする主力組が先発した前半は1-0で終えている。
銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪、そして4位に入賞した2012年のロンドン五輪で、日本はともに準決勝で敗れている。埼玉スタジアムで3日に待つ大一番は勝てば銀メダル以上を確定させる、日本サッカー界の歴史を変える戦いになる。
知人から勧められたマウスピースを「リラックスできる」と気に入り、6月から湘南カラーの緑色のそれを使っている谷は、東京五輪では白色に変えて着用している。さらに心のなかで「今日もよろしく頼むぞ」と呟きながら、左右のゴールポストに額をこすりつける試合前の儀式をへて、一戦ごとに成長している若き守護神は運命のキックオフを待つ。