22年222ゴールで引退 大黒将志40歳が明かす“一番影響されたストライカー”「インザーギにイタリアのカフェで会った話」#2

元日本代表FWの大黒将志(40歳)が、現役生活に別れを告げ、来季から古巣ガンバ大阪の下部組織のストライカーコーチに就任することになった。22年間で222ゴールを挙げてきた“流浪のストライカー”に聞いた「偶然のゴールはあった?」「苦手なDFは?」。そして“憧れ”のインザーギとの秘話とは――。

「試合中に地面を叩いたりしなかった」

ゴールを奪うためにいちばん大切なことは何か。22年間のキャリアで約600の公式戦(代表戦含む)に出場し、222ものゴールを決めてきた大黒にとって、それを説明するのは難しくないかもしれない。

「いちばんは点を取りたいという気持ちじゃないですか。どれだけハングリーかということ。1点取っても、2点目が欲しいと思えるか。それと、やっぱり動き方とシュート技術。動き方にはタイミングやスピードなども関係しますけど、どれか1つが欠けても難しい。あとは、いかに平常心を保てるかということ。たとえばFWはシュートを外したら気持ち的に凹んでしまいがちですが、そのメンタルの波をいかになくせるか。

ちなみに、僕はシュートを外してもあえて気にしない素振りをしていたというか、悔しそうな素振りを見せたことはないですね。選手によっては地面を叩いて悔しがったりしていますけど、相手に弱みを見せたら負けやと思いますし、僕はずっと平然としていました。反省する時間はあとでいくらでもあります。試合中は余計なことは気にせず、ひたすらゴールを目指すことに限ります(笑)」

「わざと“死んだふり”をしてみたり…」

178センチ、73キロ。大黒はストライカーとしては日本人選手のなかでも小柄な部類に入る。一瞬のスピードは売りの1つだったが、飛び抜けた走力があったかといえば、そうではない。だからこそ、ゴールを奪うためにどうすればいいか、常に考えてきた。

「背も大きくないですし、僕より足の速い選手なんて、いっぱいいましたからね。ただ、考えていると、どうすれば点が取れるかってわかってくるんです。岡田(武史)さんもよく言っていましたけど、チャンスは誰にでもある。でも、それを掴めるかは、しっかり準備をしているかどうかによると思うんです。

たとえば、味方のサイドバックがルーズボールを拾いにいっているような場面。僕は相手DFに背を向けて、自陣ゴール側を見ていたとします。そんなときでも、そのサイドバックがボールを拾ってから、3、4つ先のプレーまで考えて、実際に何度も点を取ってきました。DFにしたら、まさか僕がそんな先のことを考えているとは思ってもみなかったでしょうね。でも、点を取るにはDFとの駆け引きこそ重要で……わざとオフサイドポジションを取って‟死んだふり”をしてみたり。日本にはそこまでする選手はまだ多くない気はしますが、そういうことができればどこへ行っても点は取れるんですよ」

プロ初ゴールだけが「偶然だった」

考えてゴールを奪ってきたからこそ、決めてきたゴールはすべて覚えている。どういう経緯でゴールが生まれたかを説明しろと言われたらほぼ説明できると話す。

「ゴールに偶然はないですからね。ゴール前にいたら当たって入ったというゴールはありましたけど、それもそこにボールが来ると思ってポジションを取っていたわけで。あっ! でも1つだけあります。2年目のプロ初ゴール(00年3月11日、ガンバ大阪対ヴェルディ川崎)。あれは僕が上げたセンタリングが中澤さん(佑二)の足に当たって入ったんで偶然でしたね(笑)」

苦手だったDFは?「中澤さんには…」

苦手だったDFは?と聞くと「特にはいなかった」という。だが、敵として対峙しただけでなく、日本代表と横浜F・マリノスではチームメートとして戦ったその中澤の守備力の高さには大黒も舌を巻くしかなかった。

「中澤さんには、トラップがイメージと10センチでもズレると後ろから突かれた。マリノスで一緒にやってるときは、対戦するFWは大変だろうなって思っていました(苦笑)。シュートブロックが上手くて、センタリングに対してはニアを消しながら、頭を超えそうなボールもヘディングで触るとか1人2役。ファウルもほとんどなかったですからね」

Jリーグで7回“最多ハットトリック記録”

過去の大黒のコメントを拾うと「もっとゴールをしたかった」というフレーズがいくつも出てくるが、その一言に大黒がどれほどゴールに拘っていたかが凝縮されているといえるかもしれない。

Jリーグ史上日本人選手で最も多くハットトリックを達成しているのはジュビロ磐田の黄金期にゴールを量産した中山雅史(すべてJ1)の7回で、J2も含めると大黒も7回(J1で3回、J2で4回)で最多タイに並んでいる。

「ゴンさんはぜんぶJ1で僕はJ2の4回が入っているんで、同じとは言えないですけどね。でも1つ言えるのは、僕は栃木時代に2点取って途中交代した試合が2回あったんですけど、そのときにあと5分出させてくれとすごい思ってたんで……。山形時代にも、そんなことは何回かありましたから、もう少しだけピッチに立てていたら8回目があったかもしれません(苦笑)」

ガンバ大阪時代の04年の天皇杯では大黒が1人で5ゴールを叩き出し、横浜FCに5-0と快勝したこともあった。

「そのときも、6点目を狙っていました。いちばん良くないのは点も入ってないのにいいプレーをしたからと満足することだと思うんですが、あのときはさすがに容赦なかったですね(苦笑)。その時のGKとのちに同じチームになったことがあったんですが、向こうは僕に点を取られたことをはっきり覚えていたのに、僕はそのGKのことなんてまったく記憶になかったですから」

憧れのインザーギにカフェで会った話

06年から08年までの2シーズン、セリエAのトリノでプレーしたことも、大黒のその後のキャリアに大きく影響したのは間違いない。大黒自身がイタリアでゴールを挙げることはなかったが、堅守が謳われるリーグで世界各国のストライカーの動きを目の当たりにしたことは何にも代えがたい経験だった。

「F・インザーギ、クレスポ、トレゼゲ……。ジラルディーノもそうだし、クアリアレッラにディナターレにカバーニもそう。そういう選手たちがどのタイミングで、どういう動きをしているかということをピッチレベルで見られたのは奥深かったですし、本当にたくさんのことを学びました」

最も影響を受けた1人であるインザーギとは代理人を通じて対面し、カフェでアドバイスを受けたことがあったとうれしそうに振り返る。

「インザーギは会ってみると体の線は細目で、スピードを落とさないために筋肉を付け過ぎずにいるんだなと感じました。自分も、筋トレするとすぐに“筋肉太り”する方なので、鍛えるのは腹筋と背筋だけにするとか、いろんなヒントがありました。具体的なアドバイス? ここで言うのはちょっと……。それはガンバのアカデミーに入ってもらったらきっちり教えますんで、どしどし来てもらえたらと思いますね(笑)」

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