12チーム222ゴール“流浪のストライカー” 大黒将志40歳が語る“引退”「まだ続けられたけど…お金を無視するのは違った」#1
元日本代表FWの大黒将志(40歳)が、現役生活に別れを告げ、来季から古巣ガンバ大阪の下部組織のストライカーコーチに就任することになった。日本代表に入った05年には、ドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮戦の後半終了間際に決勝点を挙げたことで“神様・仏様・大黒様”と呼ばれるなど時の人となったこともあったが、それ以前もそれ以後も大黒がこだわってきたのは、FWとしてゴールを決めることだった。40歳になったいまもゴール嗅覚に衰えは見られないが、指導者としての成功を目指し、新たな舵を切ることになった大黒を直撃した。
「J1かJ2でやらせてもらえればと思っていたのですが……。体に痛いところはなく自主トレは続けていたので、どのカテゴリーでもチームが決まればゴールできる自信はあったんですけどね。将来的には指導者として成功したい思いもありますし、これからはコーチ業を頑張ります」
2021年1月22日。都内で引退会見に臨んだ直後、大黒は清々しい表情でそう言った。
1980年生まれの40歳。99年にガンバ大阪ユースからトップチームに昇格した大黒は、04年に日本人最多の20ゴールを挙げたことが評価され、翌05年に初の日本代表入り。代表2戦目となったW杯アジア最終予選の北朝鮮戦で79分に途中出場すると、ロスタイムに値千金の決勝弾を挙げて一躍全国区の人気選手となった。
06年にはドイツW杯に出場し、その後は夢だったセリエA(トリノ)への移籍も実現。近年はJ2でのプレーが続いていたが、鋭い得点感覚に衰えはなく18年には史上初のJ2通算100ゴールを達成。キャリア最後のシーズンとなった19年の栃木SC(J2)でも29試合出場6ゴールとチームトップの得点を挙げていた。
“空白”となった昨季は10月末の登録期限ギリギリまでオファーを待っていたが、コロナ禍の影響もあってかチームが決まらず、古巣ガンバ大阪からのオファーを受ける形でスパイクを脱ぐことを決めた。
「まだ続けられたけど…お金を無視するのはどうかなって」
引退は決めたものの、トレードマークのフサフサの髪と人懐っこい笑顔はもちろん、立ち姿だって若い頃と変わらないように見える。大黒自身も体力の衰えは一切感じていないと話す。
「コロナ禍で出会ったボクシングトレーナーの方に減量の仕方を教えてもらったら、5キロ痩せました。体はめちゃめちゃキレていて、自主トレで練習参加させてもらっていた東京23FCやクリアソン新宿(ともに関東1部)、南葛SC(21年より関東2部)でも練習ではポンポン、点を決めていましたから。実際、19年も栃木でいちばん点を取ったわけですし、シュート技術は(年齢を重ねることで)研ぎ澄まされてきたというか。僕がいま感じているのは、トレーニングや食生活をしっかりしていれば、40歳までは現役でいられるということですね(笑)」
衰えを感じず、現役としてプレーできる自信もある。しかし、それでも引退という道を選んだのは大黒なりのこだわりでもある。
「僕にとってサッカーは仕事ですから。続けようと思えば続けることもできましたが、お金を無視するのはどうかなって。やっぱり点を取ることでお金をいただくのが、仕事じゃないですか。そのバランスを崩してまで、現役を続けるのは違うかなと思ったんです」
“流浪のストライカー”「22年間一度も戦力外にならなかった」
今オフには大黒と同じ1980年生まれで、川崎フロンターレ一筋でプレーしてきた中村憲剛の引退も話題となったが、中村が“バンディエラ(クラブの顔)”なら、大黒は22年間で4カ国12クラブを渡り歩くなど、まさに“流浪のストライカー”だった。
「プロ3年目でコンサドーレ(札幌)に行ったのがよかった(ガンバから1年の期限付き移籍)。当時、僕は実家暮らしで、一度親元を離れて自立したいという思いもあったんです。コンサドーレでは4試合しか出られず移籍自体は失敗でした。けど、あれで(移籍に対する)アレルギーがなくなったというか。
05年オフにグルノーブル(フランス)に移籍するときは、半年後にW杯がありましたし、もう少し待ってもいいのでは、という声もありました。僕自身、ガンバにいた方が遠藤(保仁)さんや二川(孝広)もいて、いいパスが来るし点を取り続けられるだろうと思っていました。でも、いつでも、どこでも、誰とプレーしても点を取れるのがいい選手だと思いますし、そう考えると自分は甘えている気がして。ガンバにいたら、みんなが自分にパスを合わせてくれますが、海外やほかのチームに行ったことで、その時々のチームメートの特徴やレベルに合わせなければ点は取れないということに気づかされました。結果的にどこに行っても点を取り続け、22年間1度も戦力外になることなくプレーできましたし、僕の場合は移籍を繰り返したことが、プレーの幅を広げることにつながったと感じています」
海外はもちろん、J1やJ2、様々なクラブでプレーし、ピッチ内外で様々な出会いや交流があったことで、人間的に成長できた。それが、どこへ行っても活躍できる自信にもつながったとも振り返った。
「GKとセンターバック以外はぜんぶのポジションをやりました」
大黒はストライカーとしての人生を、ゴールを取ることで切り拓いてきたと言ってもいいが、その生き方や考え方は聞けば聞くほど職人のように思えてくる。
「ストライカーにとってはゴールを取るのが仕事ですから。人によっては、FWも守備をすべきとか、いろいろな考え方があると思います。ただ、僕は『守備を頑張ったから得点できませんでした』という言い訳は絶対にしたくなかったし、ピッチに立った以上はゴールを奪うのが自分の役目だと思ってずっとやってきました。そうして自分で自分を律することで極められた部分はあったと思います」
ただ、サッカーを始めた当初、大黒は点取り屋というよりもアルゼンチンの英雄マラドーナに憧れたドリブラーだった。そんな選手がなぜストライカーとして覚醒したのか。
転機となったのは、プロ4年目、02年にコンサドーレ札幌からガンバ大阪に戻った頃だったという。3年目まで1ゴールと結果を出せていなかった大黒は、プロとして生き残っていくためにストライカーとして勝負するしかないと腹を括ったのだ。
「それまでは割と器用な方だったので、トップ下をやったりサイドハーフをやったり、場合によってはサイドバックまでやったことも。ユース時代を含めれば、GKとセンターバック以外はぜんぶのポジションをやりました。ただ、最初の3年間はほとんど結果も出せず、周りで戦力外通告をされてきた選手を何人も見てきていたので、もうこれ以上はあかんと思って。それで監督の西野(朗)さんに、FW一本で勝負させてくださいと直訴したんです」
そうした割り切りの発想こそストライカーに必要な要素で、大黒にとってはどうしたらゴールを奪えるかを追求し続けるキッカケになったと言ってもいい。
生粋のゴールハンターともいわれたが、その得点感覚は決して天性のものではない。大黒自身が後天的に身に付けたものだったからこそ、キャリア通算200以上のゴールを挙げるなど長い現役生活を可能したのではないだろうか。