“ガンバの元祖・天才”51歳礒貝洋光は19歳久保建英をどう見る?「プレーよりもスゴイのは…」――2020 BEST3
2020年、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。日本サッカー部門の第3位は、こちら! (初公開日 2020年10月10日、肩書きなど全て当時)。
1978年、熊本でサッカーを始めたばかりの9歳の礒貝洋光にとって、同年にアルゼンチンで開催されたW杯決勝の様子は、最初に見た海外サッカーの記憶として、いまも脳裏に焼き付いている。
大量の紙吹雪でピッチが覆われているなか、アルゼンチンのマリオ・ケンペスがゴール前で足裏で突いたシュートがコロコロとオランダゴールに転がっていく。1-1で延長に入った105分、決勝弾を決めたケンペスが長髪を振り乱し、両手を大きく広げて走っているシーン、サッカーファンなら1度はハイライト映像などで見たことがあるだろう。
「たぶんNHKの中継だったと思うけど、子どもながらになんで紙吹雪の上で試合しているんだろう、スパイク滑らないの? って思ったり(笑)。それと、ケンペスの髪型を見て、こんな髪の長いサッカー選手がいるんだって驚いて。で、翌年には日本開催のワールドユースでずんぐりむっくりのマラドーナが出てきて、ラモン・ディアスとのコンビが圧倒的でしょ。もう世界はどうなっているんだって感じだったよね」
画面のなかには、サッカー少年を虜にする魅力が詰まっていたのだろう。
好きだったのはクライフとプラティニ
「いつかはオレもW杯に出て……」、そんな思いになったかはわからない。ただ、世界中に広がるサッカーに興味を抱いた礒貝は、ビデオで名選手のプレーを見ながら帝京高、東海大と名門校に進みメキメキと力をつけていった。
「ペレも見たけど、あのフィジカルは真似できない。好きだったのはオランダのクライフとかフランスのプラティニ。クライフのビデオを見て、フェイントとか緩急の使い方を真似したり、高1のときにトヨタカップで来日したプラティニの鬼のようなスルーパスにも刺激を受けた。それで大学時代に休学して、スペインのバルセロナにまで行った。カンプ・ノウにカメラマンとして潜り込んで……もうクライフは監督になっていたけど、試合の1つひとつのプレーにどういうリアクションをするかに興味があって、ずっと見ていた。クライフやプラティニが特別だったというか、サッカーが美しかったというかキレイで、そういうのに憧れていたのかも」
ライカールトのドレッドヘアを真似したが……
まだ日本にJリーグがなく、海外サッカーの情報が乏しかった時代。礒貝は、必死に情報をかき集め、なんとかそこに近づこうと密かに思っていたのだろうか。
バルセロナから帰国した際には、当時ミランに所属していたオランダのスター選手、フランク・ライカールトの髪型を真似てみたり、スペインに戻るつもりで日本にいながら欧州時間で生活していたこともあったと振り返る。
「ライカールトを見てやっぱりドレッドヘアだろと思ったけど、パンチパーマみたいにグリグリになっちゃったことも(笑)。当時は漠然と(将来は)海外でやるんだろうというイメージで毎日夜中まで起きていて、朝方から活動するなど1人ヨーロッパ時間で生きていたときもあった」
「木村和司さんとの競り合いでケガするとはね」
そんな礒貝の心を折った要因のひとつがケガだった。
92年、東海大を3年で中退し、ガンバ大阪入りした礒貝。翌年に開幕するJリーグのプレ大会として開催されたナビスコカップ初戦の横浜マリノス戦に先発出場。しかし、開始直後に負傷すると、わずか7分でピッチを去ることになった。
それは礒貝にとっても、ガンバ大阪にとってもプロとして挑む初の公式戦だった。 「開始直後の競り合いで足を踏まれてね……。代えてほしいとベンチに言ったら、当時コーチだったヴィタヤ(・ラオハクル)が開始3分で交代するわけにはいかないと激怒していて。結局、痛みが酷くて動けないので、そのあと少しだけやってから交代したけど、当初の診断では問題ないと言われていた足首は、後々痛みが引かずに調べたら剥離骨折ということだった」
礒貝の記憶が正しければ、中盤で競り合ったのは80年代に日本代表で10番をつけていたFKの名手・木村和司だった。
そのケガが原因でのちに足首にボルトを埋め込む手術をすることになったが、以降、術前の感覚に戻ることはなかったという。 「柱谷哲二さんのような選手にガツンと当たられてケガをしたなら納得もするけど、よりによって(テクニシャンで守備を専門にするわけではない)木村和司さんとの競り合いでケガするとはね(苦笑)」
いちばんやさしいボールをくれたのは礒貝
かつて帝京高校で礒貝とホットラインを形成し、のちに名古屋グランパスなどでストライカーとして活躍した森山泰行は、こんなことを言っていたことがある。
「プロでもいろんな選手とやったけど、どうぞシュートを打ってくださいといちばんやさしいボールをくれたのは礒貝だった。足首に人工じん帯を入れて、それまでの自分のボールタッチができなくなったんじゃないかな。すごく繊細な選手だったから」
俊輔、小野、久保……天才は天才をどう見る?
Jリーグ開幕以前から海外でのプレーも視野に入れるなど、若くして天才と謳われた礒貝のあとにも、日本サッカー界には中村俊輔や小野伸二、遠藤保仁、宇佐美貴史や久保建英ら多くの天才と称される選手が出ているが、元祖・天才は彼らをどう見たのか。
「みんな上手いけど、普通だよね。驚くかと言ったらそうじゃない。サッカーにおいて、天才という言葉がどういうことを表しているのかは自分にはわからないというか、そういう言葉は誰にも当てはまらないとも思ってる。
たとえば、メッシのプレーなんて解説できないでしょ。要はトップスピードでゴール前に入って、ピタッとトラップして、切り返してシュートを決めるだけ。それを世界的なDFを相手にやってしまうから、もちろん、エエッ!? とは思うよ。
ただ、それはレベルの違いであって、できる選手はできるということ。小野にしてもメッシにしても、そこにゴールがあって決めなきゃいけないからボールを蹴っているというだけの話じゃないかな」
質の高い選手のプレーに唸ることはある。だが、すべてのプレーは礒貝にとってある意味で想定内だという。一方で、それ以上に感じるのはメンタリティーの進化で、日本サッカーがさらに世界で躍進する日もそう遠くないと確信しているとも話す。
「例えばマルセイユの酒井宏樹にしてもビジャレアルの久保くんにしても、フランス語やスペイン語を普通に話して欧州リーグでもあらゆる面で対等に戦うのが当たり前になりつつある。20歳のときにバルセロナに留学してもほとんど試合ができなかった自分の時代とは違う。今後すぐにW杯の決勝で勝てるかと言ったら微妙だけど、近い将来に日本サッカーの新しい扉が開かれたとしても不思議じゃないところまで来ているのでは」
現役時代、針の穴を通すようなキラーパスが礒貝の武器だった。年を重ね、プレーの再現はもうできない。だが、ときに事の核心を突くような独創的な発想は、いまも錆びついていなかった。