「第2の釜本」はなぜ生まれないのか―試論・決定力という課題―(1)日本サッカー史上ただひとりの“ワールドクラス”

かつて、メキシコ・オリンピックで得点王になった釜本邦茂には、南米やヨーロッパの有名クラブから獲得のオファーが殺到した。ドイツの有名クラブでプレーする計画も実現間近となっていた。Jリーグが始まって27年が過ぎても、彼を超えるストライカーは現れない。あらためて考えたい。どうしたらこの国に、ワールドクラスの点取り屋が誕生するのか。

■レバンドフスキはまさに「ゴール・マシーン」

現代サッカー最高の選手がリオネル・メッシ(アルゼンチン)とクリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル)であることに異論をはさむ人は少ないだろう。なにしろここ10数年間、「バロンドール」をほぼこの2人で分け合ってきたのだ。2018年にルカ・モドリッチ(クロアチア)が受賞した以外、2008年以来の11回を、ロナウドが5回、メッシが6回と二分する形で受賞している。

この2人が文句なく評価を受けてきた背景には、際だって高い得点力がある。トップリーグでの試合数に対する得点数の割合を見ると、メッシが91.5%(16シーズン、485試合、444点)、ロナウドが78.0%(18シーズン、577試合、450点)と驚異的な数字を示しているのだ。シーズン34試合のJリーグの得点王が20点(60%弱)前後であることを考えれば、長期間にわたってこの数字を残すことがいかに超絶したことであるかがわかるに違いない。

ただ、メッシとロナウドは世界中で何十年かに1人出るかどうかという天才である。彼らの前には、ディエゴ・マラドーナ、ヨハン・クライフ、ペレといった選手たちがいて、世界のサッカーのなかでひときわ大きく光り輝いてきた。彼らはまさに「神」が地上に送り込んできたようなプレーヤーであり、計画的なトレーニングでつくり出すことは不可能だ。

では、トレーニングから生まれた「第1級のストライカー」は誰だろうか。いま最も安定した得点力を見せているのは、バイエルン・ミュンヘンをブンデスリーガとUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導いたロベルト・レバンドフスキ(ポーランド)ではないか。2019/20のブンデスリーガで31試合に出場して34ゴール、チャンピオンズリーグでは6試合で11得点。右足、左足、そしてヘディング。どんな状況でも、彼は正確にゴールに送り込む。まさに「ゴール・マシーン」だ。

サッカーは「ゴールを争うスポーツ」である。最終的に勝利を手にする手段は、良いプレーをすることではない。相手を上回る得点を挙げることに尽きる。だから世界のどのクラブも、高い得点力をもった選手をのどから手が出るほど求めている。そして幸運にもそうした選手を得たクラブは、左うちわで試合に臨むことができる。

かつて、日本人にも、そんなストライカーがいた。釜本邦茂である。

■バイエルン・ミュンヘンでプレーする計画も

1944年4月15日に京都で生まれた釜本は、1960年代から1984年にかけて早稲田大学、ヤンマーディーゼル、そして日本代表で活躍した。ヤンマーの選手、後に監督兼選手として日本サッカーリーグ(JSL)で251試合に出場して202点(80.1%)を記録、プレーした17シーズンのうち7シーズンで得点王となっている。何より、JSL時代全27シーズンで釜本に次ぐ通算得点記録が85点であるということを知れば、彼がいかに隔絶したストライカーであったかがわかるだろう。通算シーズン数がJSLとほぼ同じで、年間の試合数がJSL時代の2倍以上にもなるJリーグ(J1)でさえ、現時点の最多通算得点は大久保嘉人の185点(17シーズン、448試合=41.3%)なのである。

日本代表では、釜本の時代にはクラブチームとの対戦が多く、Aマッチは限られていた。近年は100試合を超す選手も少なくないが、釜本のAマッチ出場数は76試合。その試合数で75点を記録している。こちらも、釜本に次ぐのは三浦知良(カズ)の55得点(89試合)と、2位以下を大きく大きく引き離しているのだ。

メキシコ・オリンピック(1968年)での得点王も特筆される。この大会で日本は3位決定戦まで6試合を戦って9ゴールを記録、そのうち7点が釜本(残りの2点はともに釜本のアシストにより渡辺正が記録)だった。日本は常時5人のDFを配して2人のMFとともに守備を固め、左ウイングの杉山隆一がロングパスを追ったり自らドリブルで進んでチャンスをつくり、そこからのボールを釜本が決めるという非常にシンプルなサッカーをした。釜本の決定力あっての銅メダルだった。

当時24歳。釜本は自己のサッカーを完成させ、まさに世界的な選手になっていた。前年までは、大型選手にありがちな動きの緩慢さが目立っていた。すでに自分の型はもっていたが、ボールを止め、ターンして、打つという3プレーがひとつひとつ分かれていたのだ。しかしこの年の1月から3月にかけて単身で西ドイツに短期留学、ザールブリュッケンのスポーツシューレで州主任コーチのユップ・デアバル(後に西ドイツ代表監督)に鍛えられ、まったく別の選手になった。プレーが流れるように一連のものとなり、スピード感が格段に増したのだ。

メキシコ・オリンピック後にはブラジル・サッカー協会創立50周年を祝う記念試合の世界選抜に推挙された。そしてオリンピックで釜本のプレーを目の当たりにしたメキシコはもちろん、欧州や南米のプロクラブから多数のオファーも受けた。彼の恩師であるデットマール・クラマーが計画したように、西ドイツのトップチーム、たとえばバイエルン・ミュンヘンでプレーしていたら、おそらく当時世界最高レベルにあったブンデスリーガのトップスターのひとりになっていただろう。間違いなく、釜本は「ワールドクラス」の選手だった。

釜本の後、Jリーグ時代になって、世界のトップリーグで活躍したアタッカーは少なくない。中田英寿をパイオニアに、小野伸二、中村俊輔、香川真司、本田圭佑、大迫勇也、南野拓実……。しかし私にとって、「日本サッカー史上最高の選手」はいまも釜本なのだ。時代を超えてサッカー選手を比較するのはあまりフェアではないかもしれないが、中田以降を見ても、「ワールドクラス」と言えるまでの選手はいない。日本サッカー史上、「ワールドクラス」は釜本ただひとりなのである。

■五輪フランス戦での強引なゴール

では、釜本の何が「ワールドクラス」だったのか。

JSL時代に公表されていたのデータによれば、釜本は179センチ、79キロ。だが、数多くの釜本の試合を見、釜本の名で出版された本も監修するなど、釜本の高校時代から最も近くで彼を観察し続けてきたジャーナリストである賀川浩は、「実際は182センチ」(『20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)』賀川サッカーライブラリー)と書いている。日本ではもちろん、当時の世界では、間違いなく「大型ストライカー」だった。

スピードもあった。ドリブラーというタイプではなかったが、スペースがあればぐいぐいとドリブルで進み、サポートがなければ自ら突破してシュートを決めた。フェイントの種類は多彩とは言えなかったが、タイミングと距離感がよく、相手を抜きにかかればほとんどの場合あっさりと抜いた。そしてすぐれたボディーバランスを生かし、相手のボディーチェックにも動じなかった。メキシコ・オリンピックのフランス戦では、右サイドでボールを受けて強引にひとりを抜き、角度のないところから強烈なシュートを決めた。

何より、釜本はボールを受けてからシュートするまでの一連の動作が滑らかで、足の振りの速さもすばらしかった。得点力の高さは、ひとつには、ときに2人がべったりと張り付いたマーク相手を出し抜くこの「速さ」にあったのは間違いない。「止めた」と思ってタックルにはいっても、釜本はその直前に足を振り抜き、シュートを放っているのである。

得意は右足だったが、左足シュートの強烈さも無視できない武器だった。彼の右足シュートを恐れるあまり、左に出たときには相手の対応が甘くなるのに気づいた釜本は、左足シュートの練習に熱中した、その結果、器用さでは右足に劣っても、破壊力では逆に上回る左足シュートを自分のものとしたのである。

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