楢崎正剛さんが語る遠藤保仁と「632」の重み フリューゲルス後輩が偉業へ

新型コロナウイルスの影響で約4カ月中断し、7月4日に再開するサッカーのJ1では、元日本代表MF遠藤保仁(40)=ガ大阪=による大記録達成が見込まれる。名古屋などでプレーした元代表GK楢崎正剛さん(44)とJ1リーグ戦出場試合数で並んでおり、あと1試合で単独最多の通算632試合となる。2人のプロの出発点は、Jリーグの歴史で唯一、消滅したクラブ、横浜フリューゲルス。代表でも長年ともにプレーした楢崎さんが語る、後輩であり盟友の遠藤のすごさ、記録の重みとは。

◇高卒即先発から感じたタフさ

奈良育英高から横浜フに入った楢崎さんの初出場はプロ1年目の8月。レゲエ音楽が好きで独特のヘアスタイルでも人気を集めた正GKの森敦彦さんが出場停止処分を受けていた期間に定位置を奪った。3年後の1998年、鹿児島実高から入った遠藤は開幕節から先発で起用された。

「丸刈りが伸びたてで初々しかった。高卒でスタメンで出るのはあまり聞かない。見た目、顔つき、プレーもガツガツしている感じには見えないが、やるところはやる。気持ちの面で、見た目よりタフなんだろうなと思った。走っていないように見えることもあるが、どこにでもいて、あれだけボールを触るのは動いている証拠」と楢崎さんは言う。

◇何かが起きる、点が入る期待感

横浜フの消滅で同じチームに所属したのは1年だけだったが、遠藤が日本代表入りした2002年以降、一緒にプレーする機会が増えた。最後方から見ていた楢崎さんの目に遠藤は、中村俊輔(横浜FC)と並んで特別な選手に映った。2人の共通点はFKの名手であること。「後ろから見ていても、ボールの前にあの2人が立つだけで何かが起きる、点が入ると期待感を持っていた」と振り返る。

楢崎さんは13年5月6日、仙台戦で伊東輝悦(現J3沼津)の記録を抜いてJ1出場試合数が歴代最多の512試合となったが、「いつ抜いたとか、何の試合だったかは覚えていない」という。しかし、現役引退までに出場した631試合は「『631』と何回も言われるので覚えた。一番になったことで、自分の名刺代わりにもなった。1試合プレーすること、プロで試合に出ることは簡単ではない。数多く積み重なったことは、終わってから誇りに思えている」と話す。一方で「荷が重いので、早く遠藤が一番になってくれとも思っていた。昨年抜く感じがあったので、いよいよだと思っていた」というが、遠藤は昨季、34試合中28試合の出場(通算630試合)で更新は持ち越しとなり、「何やっているんだ」と笑う。

◇Jリーガーが世界で戦えると証明

現役時代は「うまくなりたい。自分の理想があり、早くそうなりたい。でも、結局なれない」の繰り返し。「試合でできないと何の達成感もない。うまくなっていることを証明するのが、結果であり勝つことだった」。第一線でプレーし続けるために「意欲、向上心を失わない、けがをしない、けがをしたらすぐ治す」と心がけ、「いろいろな監督の下でプレーするので、監督の求めるものを早く理解するのも大事。GKに関するルールも変わり、トレンドもあった。全ては自分を向上させるもので、新しいことを取り入れるのは自分をグレードアップさせること」と考えていたという。

約7年間、最多記録保持者として過ごしたが、ほどなく更新される。「遠藤ならいいかな。一緒にやってきた選手でもあり、フリューゲルス出身というのもある。何よりもJリーグを盛り上げ、Jリーグで戦っている選手が世界で戦えることを見せてきたのが遠藤保仁だと思う。僕よりもタイトルも取り、キャリアも輝かしい。そういう選手が一番になるのは僕にとってはうれしい」と期待している。

◇えんどう・やすひと

1980年1月28日生まれ。98年に鹿児島実高から横浜フリューゲルス(消滅)入り。99年から京都パープルサンガ(現京都サンガ)、2001年からガンバ大阪でプレー。日本代表としては歴代最多の152試合に出場し15得点。ワールドカップ(W杯)には06年ドイツ大会から3大会連続で選出された。

◇ならざき・せいごう

1976年4月15日生まれ。95年に奈良育英高から横浜フリューゲルスに入り、99年から名古屋グランパスに。2017年はJ2でプレー。再びJ1に戻った18年は出場機会がなく、19年1月に現役引退を発表した。日本代表としては77試合に出場。W杯は98年フランス大会から4大会連続で選出された。

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