日本人初ハットの永島昭浩氏が語るストライカー人生

元サッカー日本代表FWでガンバ大阪やヴィッセル神戸などで主将を務めた永島昭浩(56=日刊スポーツ評論家)が、自身のストライカー人生を振り返った。

Jリーグで日本人初のハットトリックを達成し、現役最後の試合では延長Vゴールを決めるなど、勝負強さが光った。その根底にあるサッカー論を語り、後輩へエールも送った。(敬称略)【取材・構成=横田和幸】

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永島がJリーグに在籍したのは実質6年半。通算61得点(165試合)は、歴代得点ランキング59位と決して高いわけではない。だが、ずばぬけた勝負強さで、記録よりも記憶に残る名選手となった。

現役後半の97年、地元神戸に移籍しての3年目はキャリアハイを迎えた。日本人最多22得点は、1シーズン自己最多記録。永島史上、最も創造力あふれた得点が生まれる。4月12日、開幕鹿島アントラーズ戦の前半38分、デンマーク代表MFミカエル・ラウドルップとのワンツーで決めた右ボレー弾だ。2人は同じ年齢で同僚となって1年近くがたっていた。

「ラウドルップとのポジションが確認できた時、ロジック(論理)から共通のアイデアにプレーが移った。練習から彼が、僕に求めるポジショニングがあるが、アイデアを注文されたことはない。2人の中で『こうなれば次、こうなっていく』というロジックが自然と蓄積されていった。その集大成であり、自分で言うのも何だが、あれはすばらしいゴールだった」

永島のサッカー哲学は意外にも、松下電器(現G大阪)時代のJリーグ発足前から固まっていた。オランダ留学から帰国し、迎えた89-90年。日本リーグで22試合15得点、ベストイレブンにも選ばれた。90年には日本リーグ選抜として、バイエルン・ミュンヘン戦(国立)に臨んだ。そこで同年W杯イタリア大会で優勝した西ドイツ代表のDFユルゲン・コーラーが、当時26歳の永島に衝撃を与えたという。

「相手CKの直前、僕はカウンター要員としてセンターサークル付近にいた。するとコーラーが僕に近づいてきて、体の正面に立ち、僕の目の奥を観察するようにロックオンしてきた。精神面も含めて僕の情報を少しでもつかみ、戦いに役立てようとしたと思う。世界のトップDFは、どんな相手でも緩めることなく、探究心を持って挑んでくるんだという驚きがあった」

実際に試合中、コーラーは、激しいプレーで永島を抑えにきた。親善試合なのに、決死の覚悟が感じられたという。

「当時は指導者の言うことが、ほぼすべてという時代だった。サッカーとは本来、教えられるだけではなく、個人の判断や応用力こそが質の高いプレーを生む。今は映像が発達したが、自分を高めるためにはそれに頼りすぎていていないだろうか。コーラーのように自分から発見しにいかないと。ラウドルップと僕はあの時、自分たちで考え、結果を導きだせた気がする」

永島はG大阪時代の93年Jリーグ元年に日本人初のハットトリックを達成、初のオールスターでも得点して敢闘賞を受賞。神戸で迎えた00年の現役最後の京都戦では延長Vゴール。これらはすべて、故郷の神戸ユニバー記念競技場で挙げた。清水エスパルスに移籍した94年、開幕戦で試合終了間際に右足で決勝点を決める。勝負強さは際立った。

「僕は足が速いわけでもなく、シュート練習は誰よりもやった。性格的にも負けず嫌い=ゴールを決めることで、数字に出せたかなとは思う。神戸での晩年は体力が落ちていったのに、時間をかけて自分を成長させられた。引退試合のゴールは、サッカーの神様からのご褒美でしょう」

神戸では現在、FW古橋や永島の背番号13を引き継いだFW小川らが、スペインの英雄MFイニエスタとの連係を磨き、クラブの看板へと成長している。かつての永島とラウドルップが築いたような、創造力あるプレーが根付いてきた。

「今の神戸はバルセロナと同じような練習ができるし、世界基準のグループ戦術や個人技を学べる環境にある。イニエスタは古橋らを信頼しているのが分かるし、結果を出し続けることが、Jリーグの発展につながると思います」

◆永島昭浩(ながしま・あきひろ)1964年(昭39)4月9日、神戸市生まれ。兵庫・御影工高から松下電器(現G大阪)入り。G大阪から94年清水、阪神・淡路大震災の起きた95年途中に故郷の神戸(当時JFL)へ移籍。J1通算165試合61得点、日本代表4試合無得点。引退の翌01年以降は日本協会アンバサダー、国際委員会委員などを歴任。日大大学院で修士号も取得。家族は夫人と1男1女、長女優美さん(28)はフジテレビアナウンサー。182センチ、77キロ。

【取材後記】

元日本代表FWの永島昭浩さんが兵庫・御影工高を卒業して、ガンバ大阪の前身となる松下電器(現パナソニック)に入社したのは、NHK連続テレビ小説「おしん」の放送が始まり、東京ディズニーランドが開園した83年4月。当時は大阪・枚方市の社員寮に住み、門真市にある厨房器事業部でシステムキッチンなど商品の点検をしていたという。

午前7時に会社の食堂で朝食を取り、新聞を読み、8時の朝礼から1日が始まった。「物づくりの前に、人づくりを尊び、一般社員の目線で徹底的に社会の常識、厳しさを教えてもらった」と感謝している。Jリーグで「ミスターガンバ」「ミスター神戸」と呼ばれるまでになったスターの原点は、サラリーマンの環境にあった。

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