“恐るべき子供”井手口陽介が日本代表に上り詰めるまで…飛躍への分岐点とは?

上手い選手は数多い昨今の日本にあって、井手口陽介は「戦える選手」である。

小学校時代は生まれ故郷の福岡で「FWで点を取るのが大好きだった」(井手口)少年は、ガンバ大阪のジュニアユースのセレクションの門を叩く。

当時、兄の正昭(現ホアンライン・ザライ、ベトナム)が阪南大でプレーしていたこともあり、ジュニアユース合格後は母と大阪での生活を送ることになる井手口ではあるが、セレクションで別格の輝きを放っていたという。

「セレクションの1次で『アイツは誰やねん』って凄さで一発合格やったね」ジュニアユース監督を務める鴨川幸司の証言だ。

ジュニアユースでは1年生からFWなど攻撃的なポジションで起用されていた井手口はやがてジュニアユースとユースで背番号10を託されるが、現在のストロングポイントである球際の強さは、当時から垣間見せていた。

「陽介は中学1年の時から、3年生に混じってもフィジカルが強かった。Jリーグ選抜でブラジルに遠征した時も、ガツガツと当たりに行けていたし、逆に(宇佐美)貴史なんかは、そういうコンタクトを嫌がるタイプだった」(鴨川)。

家長昭博や宇佐美らオンザボールでこそ特長を発揮できる選手を数多く輩出して来たG大阪アカデミーにあって、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の言葉を借りるなら「デュエル」を厭わないのが井手口だ。

宇佐美以来となる飛び級でのトップ昇格を果たしながらルーキーイヤーの2014年はナビスコカップ(現ルヴァンカップ)のグループステージ2試合に出場したのみ。「三冠に何も僕は貢献できていない」(井手口)という不本意な一年目に続いて、プロ2年目も8月まで逸材はくすぶり続けたままだった。

遠藤保仁と今野泰幸という三冠の原動力になったボランチコンビに割って入るどころか、明神智和や小椋祥平に続く「5番目の男」に過ぎなかった井手口だが、世界屈指の名門との邂逅が「戦える選手」を覚醒させる。

「あのリーベル戦で自信がついた」(井手口)。8月11日に行なわれたスルガ銀行チャンピオンシップでアルゼンチンの雄、リバープレートと対戦したガンバ大阪で井手口はシーズン2度目の先発に抜擢。右SBで先発し、開始早々の8分にPKを与えるという最悪のスタートを切りながらも、本職のボランチに移行した後半は南米王者を相手に堂々と渡り合っていた。

シーズン終盤にはチャンピオンシップや天皇杯決勝でも途中出場。遠藤をして「陽介は他のクラブならば十分に先発できる力がある」と言わしめた19歳だが、当時はまだ時折輝きを放つだけの磨きの足りないダイヤの原石。

そんな男が明らかに変わったのはチーム最年少でメンバー入りしたリオデジャネイロ五輪の経験だ。

「五輪自体はあまり試合にも絡めなかったのでいい思い出はないけど、ブラジルとやれたのが大きかった」

リオデジャネイロ五輪では唯一先発を果たしたコロンビア戦で、食い付き気味のプレーの裏を突かれて、先制点を献上。消化不良に終わった本大会だったがサッカー王国で感じた悔しさが、井手口を確かに変えていた。

「五輪では結果が出せなかったので、次はA代表に入ってロシア大会のメンバーに選ばれるよう頑張っていきたい」

ピッチ上ではどんな相手にも尻込みしない強気な男だが「取材は苦手」と人見知りであることを隠そうとはしない井手口が口にしたA代表への思いは、単なるリップサービスにあらずーー。

五輪から約一ヶ月が過ぎた9月17日の名古屋戦では待望のトップ初ゴールを叩き込むと「あの一発でより自信がついた」と話す背番号21は明らかに攻守両面で躍動感を披露。

長谷川ガンバにおいて「聖域」だった遠藤と今野のボランチコンビに風穴を空けた20歳の若武者は今季、14年ぶりとなるルヴァンカップのニューヒーロー賞とJリーグのベストヤングプレーヤー賞の二冠。11月には日本代表にも初招集された。

「若手は五輪後にグッと伸びる」と愛弟子の成長を当初から見通していた長谷川監督の更なる「予言」を紹介しておこう。

「またA代表を経験すると、これが違って来る」

上手さと強さを兼ね備える20歳はJリーグのアンファン・テリブル(恐るべき子供)である

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