W杯で躍動の中村敬斗、地元・我孫子で追った25歳の原点 出発前夜のオムライスと恩師の“確信”【あすスウェーデン戦】
日本代表が躍進を続けるW杯北中米大会で、左サイドを中心に存在感を放つ中村敬斗(25)。自身のW杯デビューとなったオランダ戦で同点ゴールを決めると、チュニジア戦では鎌田大地の先制点をアシストした。欧州で経験を積み、今や日本代表の中心的存在となりつつあるアタッカーの軌跡を、地元・千葉県我孫子市で追った。
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■「敬斗さんは地元の星」店内のサイン色紙とスパイク
大舞台に向かう直前、中村が立ち寄った場所がある。故郷・我孫子市の洋食店「猫のせなか」だ。日本代表がW杯北中米大会の事前キャンプ地、メキシコ・モンテレイへ成田空港から出発したのは6月2日。その前日の夜、中村は両親らと同店を訪れていた。
同店は昨秋にオープンした洋食店で、菅野翔さん(41)と洋美さん(41)夫妻が切り盛りする。この日は本来定休日だったが、中村の家族らのために貸し切りとなった。
中村が注文したのは「オムライス ケチャップ」(1000円)。薄焼き卵で包まれた、昔ながらの一皿だ。
「ご家族で壮行会をされていたみたいです。『頑張ろう』という雰囲気で、終始仲が良さそうで楽しげでした。敬斗さんは店の奥から2番目のテーブル席に座り、食事をしていました」(洋美さん)
店内には、「2026年6月1日」と日付が書かれた中村のサイン色紙が飾られている。W杯で背負う背番号「13」も記されていた。来店時の写真や、愛用するナイキのスパイク「マーキュリアル」シリーズ、フォトブック『Natural』も並ぶ。 「このスパイクは、もし本人が来ることがあればサインをもらおうと、ずっと大切に保管していたものです。(中村)敬斗さんは地元の星です」(洋美さん)
地元ゆかりの店は、もう一軒ある。カフェ&ダイニング「woot woop(ウート・ウープ)」だ。2012年6月にオープンした同店には、中村が9年前に記した直筆サイン入りの色紙が、今も壁に飾られている。色紙には、こう書かれていた。 「woot woop様 ケーキありがとうございます!! 2017.11.05」
店主の女性は、当時をこう振り返る。
「うちで働いていたアルバイトの女性スタッフが、敬斗さんのご家族と家族ぐるみで仲が良かったんです。その縁で、当日はパーティーのようにお祝いをされていました」
17年11月といえば、中村が大きな注目を集め始めていた時期だ。その前月には、インドで開催されたFIFA U-17ワールドカップにU-17日本代表として出場。初戦のホンジュラス戦ではハットトリックを達成した。そして12月には、高校2年生ながら、18年シーズンからの新加入選手としてガンバ大阪との仮契約が発表される。
「U-17ワールドカップでの活躍をねぎらう『お疲れさま』と、ガンバ大阪へ向かう『いってらっしゃい』を兼ねていたのでしょうか。熱い壮行会のようでしたね。敬斗さんはまだ高校生。身長が高くて、かわいらしさの残るイケメン、という印象でした。店のオーナーである夫がサッカーをやっていて、サッカーが好きなので、敬斗さんと握手をしていました」(同)
■ロナウジーニョに憧れた5歳の少年 父とブラジルへ
幼い頃から才能を見せていた中村だが、特別な英才教育を受けていたわけではないという。かつて所属した「高野山サッカースポーツ少年団」の元代表・松本治さんは、「ごく普通の家庭だった」と語る。
「ご両親は『本人がやりたいから、やらせています』という感じでした。よほど本人がサッカーを好きだったんでしょうね。敬斗にはお兄ちゃんがいますが、兄の背中を追って始めたわけではない。お兄さんは体育会系ではなかったですから。ご両親と一緒に、弟が練習している姿を見に来るという感じでした」
中村がサッカーにのめり込むきっかけの一つが、06年ドイツW杯だった。5歳だった中村は、ブラジル代表のロナウジーニョのプレーに魅せられた。
「ロナウジーニョのプレーが収められたDVDを大切にしていて、そのケースにマジックで『ロナウジーニョになる』と書き込んでいたほどです。少年団の練習は土日の2日だけでしたが、平日は学校が終わると友達を誘って公園へ行き、毎日ボールに触っていました。中村がいたことで、周りの子たちも自然とボールに触る時間が増え、学年全体のレベルも上がっていったんだと思います」
■印象に残っているのは“走り方”
小学校低学年の頃には、「ブラジルのサッカーを体験したい」と、夏休みを利用したブラジル行きを熱望した。 .
「『いつかブラジルに行きたい』と漠然と語る子どもはいくらでもいます。でも敬斗は、それを夢で終わらせなかった。小さな単語帳で、ポルトガル語の勉強を自分なりに始めていたんです。そこまで本気で言うから、実際にブラジルに行かせてあげたお父さんも、度量が広いなと思います」
報道によれば、中村は父親と2人でリオデジャネイロを訪れ、10日間ほどの滞在中、ビーチやグラウンドで現地の人たちと毎日のようにボールを蹴ったという。
「だけど、帰ってきた次の年には『次はスペインに行く』と話していました(笑)」
松本氏は、中村が小学1年生で入団してきた時点で、他の子とは明らかに違っていたと振り返る。
「中村が在籍している間は、ずっと私が代表を務めていました。1年生で入ってきた時点で、他の子たちとは圧倒的に違っていましたね」
特に印象に残っているのが、走り方だった。
「その年代の子は、足の裏全体を地面につけ、少し足を開き気味にして走るものなんです。ところが、中村はつま先で立ち、跳ねるように走ることができていた。しかも、空中で次にどちらの足をどう着くかを判断し、次のステップに向けて体勢を変えていた。それを1年生の春の段階でやっていたんです。天才的な子が入ってきたと思いました」
■地元少年団から三菱養和SCへ 「個」を磨いた歩み
将来プロ選手になる、日本代表選手になる――。
松本氏の中には、そのステップを見た瞬間、そんな確信が芽生えたという。
中村は小学2年生まで同少年団に在籍し、3年生から柏市のクラブチーム「柏イーグルス」に移った。4年生で柏レイソルジュニアに合格したが、チームが求めるパス連携のサッカーと、ロナウジーニョのように個のドリブルで相手をかわし、シュートを決める中村の理想は合わなかったという。
「中村は小学5年生で『僕が目指しているサッカーはここじゃない』とレイソルを離れたんです。そして『高野山に戻りたい』と言ってきたので、小学校6年生の最後の1年間だけ受け入れました」
小学校卒業後、中村が次のステージに選んだのが、東京・巣鴨を拠点とする三菱養和SCだった。Jクラブの下部組織ではないが、ジュニアからジュニアユース、ユースまで一貫指導を行う名門クラブだ。中村は中学1年から高校2年でガンバ大阪と仮契約を結ぶまで、約5年間をここで過ごすことになる。高野山サッカースポーツ少年団は三菱養和と関係があり、同少年団の先輩が同クラブに所属していたこともあって、中村は自らの意思で三菱養和へ進むことを決めたという。 「三菱養和は彼の肌にすごく合っていたと思います。今でも海外から帰国した時に真っ先に三菱養和にあいさつに行き、子どもたちと触れ合っているのを見かけます。彼にとって本当に愛着のあるチームなんだと思いますね」(前出・松本氏)
中村は地元の高野山小学校、我孫子中学校を卒業した。同中学には「祝 サッカー日本代表選出 中村敬斗選手」と書かれた横断幕が掲げられていた。中学時代は平日、放課後になると電車で我孫子から巣鴨の三菱養和まで通った。
「常磐線で日暮里まで行き、そこから山手線に乗り換える。そこまで大きな負担にはなっていなかったんじゃないかと思います。むしろ、サッカーをやりに行くのが楽しくてしょうがない、という感じだった」
地元の少年団で自由にボールを追い、三菱養和SCで「個」を磨き、17歳でプロへの扉を開いた中村。その尽きないサッカーへの熱量が今、W杯の舞台で輝いている。



