「日本一の監督を目ざします」ベルギーで指導者研修の元日本代表MFが貫く“橋渡し役としてのイズム”。「いずれ、社長とかTDはどうですか」の問いには?【現地発】
「フォーマットは一度作ると形ができる。少しずつ本人のやりたい形に変えていけばいい」
2023年1月、プロとして25年間もの長きに渡る現役生活に終止符を打った橋本英郎は、この秋、ベルギーにいた。その目的はJFA(日本サッカー協会)Proライセンス取得に必修の国外研修をシント=トロイデン(以下STVV)で受けるため。今季のSTVVは7人の日本人選手、アカデミー出身選手、外国籍選手の力が噛み合って、コンスタントに5位前後の順位を維持している。
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立石敬之CEO、高野剛アカデミー責任者をはじめ、コーチ、スカウト、フィジオ、分析、広報、営業など多くの日本人が支えるこのクラブ。彼らとの交流はもちろんのこと、橋本は「ワウター・フランケン監督とのインタビューもあるんです。これが今回の研修で一番大切なことかもしれません」と、ベルギーで名の知られる指揮官との対話を楽しみにしていた。
STVVとヘンクのリンブルフ・ダービーを視察した夜、私は橋本とインタビューする機会を得た。『引退試合』『自身が運営するサッカークラブ&スクール』『慈善活動』をテーマに話を伺い、彼の人となりを少しでも知り、指導者としての橋本英郎に思いを馳せることにした。
2023年12月、パナソニックスタジアム吹田で行なわれた橋本の引退試合には1万2164人もの観衆が集まった。『ガンバ大阪’05』と『日本代表フレンズ』の間で生まれたゴール数は実に12。4ゴールを記録した橋本は試合後、観客席から労いの言葉をかけるファンに「来てくれてありがとう!」と笑顔を振りまきながらピッチを去った。
そんな楽しいムードの引退試合だったが、試合前、橋本が感極まって声を詰まらせるシーンがあった。それは、この引退試合に関わったガンバ大阪のスタッフに集まってもらって挨拶したとき。
「おはようございます! 正直、もう泣きそうになってます。皆さんがいるから、今日、この時間ができました。『ガンバと関わるとこういう時間を作ってもらえる』と感じてもらえたらな――と思います。今日一日、長いですが、よろしくお願いいたします」
これまで、ガンバ大阪で引退試合をしたくても、諸所の理由により開催できなかったOBが何人もいた。橋本も「私自身がスター選手ではなかったので、集客面・スポンサー獲得のことを鑑みても引退試合の実現は難しいと思ってました」と、当時を振り返る。しかも彼は2011年に退団してから、11年という長い期間、ガンバ大阪を離れていた。それでも、引退試合の場に選んだのはジュニアユースから20年間プレーしたガンバ大阪だった。
「引退試合をどこでやるか? と考えると、自分にとってやはりガンバでした。これだけ長くクラブから離れていた選手が引退試合をしたのは異例だと思ってます。あと、ガンバが引退試合をやったことがなかったんですよ。僕は“その初めて”をやってみたかったので、けっこう頑張ってやりました。
ガンバ大阪に相談したところ、快く承諾してくれたうえ、親会社のパナソニックスポーツにも掛け合ってくれ、私の引退試合が実現しました。現場サイドでは、私がガンバでプレーしていたときの社員の方々が部長に昇進していて、いろいろと話が進めやすかったのは助かりました。一方、引退試合当日、現場で働いてくれたスタッフは、私が退団した後に入社した人が多く、私との接点がありません。そういう人たちが自分のために働いてくれて、一つのエンタメ作りを準備してくれたのが、私には嬉しかったので感情的になりました。そこからは楽しむだけのゾーンでした」
これを契機に、今後もガンバ大阪で引退試合をする選手が続くことを橋本は期待すると同時に、本人にとっても引退試合興行のノウハウが溜まった。
「引退試合はよくできたなあと思います。今も何人かの引退試合を手伝ったりしてるので、自分にとってもいい経験になりました。フォーマットは一度作ると、ある程度、形ができますので、少しずつ本人のやりたい形に変えていけばいい。実は私の場合も、鈴木啓太さんのフォーマットを参考にさせてもらいました」
スモールステップアップを積み重ね、日本代表メンバーまでたどり着いた
橋本は引退試合の主役であったが、今後のガンバ大阪や、いずれ引退を迎える選手たちのための橋渡し役も務めていた。
「私は周りの人から助けられてずっとサッカー人生を歩んできました。例えば、良い指導者と出会うことで自分の人生が変わったりしました。自分がそういう思いをしたことを、他の人にも――と思ってます」
プレースタイルも、周りの選手をボールでつなぐ媒介役だった。
「イビチャ・オシムさんが日本代表監督(2006年、07年)のときに『水を運ぶ役』という表現をされました。私はバケツに水を汲んで運んでいく人だったんです」
2010年までの5年間、橋本の代表キャップ数は15。ベンチ入りを含めると34試合にも及ぶ。本職のボランチはもちろんのこと、DF、FWでもプレーできるポリバレントさから、オシム監督や岡田武史監督は、常に傍にいてほしいと橋本のことを思っていたのだろう。
プエンテFC(兵庫県明石市)は橋本が代表を務める、ジュニア、ジュニアユース向けサッカークラブ、およびサッカースクール(明石市、神戸市)だ。 「プエンテはスペイン語で“橋”。プエンテFCはミッションとして“今と未来を繋ぐ架け橋”ということを掲げてます」
プエンテFCに集うのは、Jクラブや強豪街クラブのジュニアユースに進めないレベルの子どもたち。
「100人サッカー部員がいるような高校に進んでメンバー入りできなくても、自分で律し、自分で立つことができる人間だったら腐ることなく、しっかり目標を設定してステップアップし、3年でベンチに入ることができるかもしれない。大学でサッカーを続けて4年になってようやくレギュラーになり、もしかしたら試合で活躍してJ3,JFLに進むような未来につながるかもしれない。私たちはジュニアユースで選手を完成させるのではなく、高校→大学→未来に繋がる要素を、この3年間で選手たちにしっかり与えます」
橋本自身、「ガンバ大阪ジュニアユースで100人中、謙遜ではなく最下層からのスタートでした。最初はHチームでしたが、試行錯誤を重ねながら上達し、中学2年のときにAチームに入りました」という経験を持つ。
自著「1%の才能」(エクスナレッジ刊)には『努力し続けることのできる能力』『目標を達成するための合理的な方法を見つけ、それを効率的に実践していく能力』があったのだという。その目標設定の仕方は、『(同期の)稲本潤一は無理でも、頑張れば手が届きそうなチームメイトはいる。それならば、ひとまずその選手を超えるために努力する』こと。こうして『成功体験をショートスパンで定期的に得る』ことができた。つまりスモールステップアップを積み重ねることによって、ガンバ大阪の黄金期を支える一員となり、日本代表メンバーまでたどり着いた。
プエンテFCから巣立つ子どもたちについて、橋本が「100人サッカー部員がいるような高校に行っても…」と語った例え話には、ガンバ大阪ジュニアユースでの「100人中、最下層からのスタート」という自身の経験と被るリアリティーがあった。
橋本は「俳優やプロスポーツ選手はチャリティ活動をするもの」という認識をずっと持っていたのだという。ある程度の地位を築いた者は社会貢献を果たすべき、という考えだろう。橋本は2009年から日本クリニクラウン協会の活動に参加している。
「『すべてのこどもにこども時間を』を合言葉に、赤い鼻がトレードマークのクリニクラウン(臨床道化師)を小児病棟に派遣し、入院しているこどもたちが、こども本来の生きる力を取り戻し、笑顔になれる環境をつくる」(同協会ホームページより)
「2009年はうちの娘が生まれた年でした。その時期は、私も日本代表に入ってましたので、『このタイミングでチャリティ活動をしようかな』と思ったんです」
「結局、社長って、監督とニアリーイコールなんです」
人をつなぐ、努力がつながる、ボールで味方をつなぐ、未来をつなぐ、社会とつながる――。プレースタイルだけでなく、ピッチ外でも『橋渡し役』を務めてきた橋本は引退試合を終えた後の挨拶で「日本一の監督になることを目ざします」と誓った。そしていま、彼はJFA Proライセンス取得まであと一歩のところまで来た。指導者・橋本英郎の未来は楽しみだ。
一方、彼の話を聞くうちに、「サッカークラブで社長やTDとして腕を振るう姿も見てみたい」と私は思った。監督業で高みを目ざす本人に訊くには失礼なタイミングではあったが、「いずれ、社長とかTDはどうですか?」と質問すると、「結局、社長って、監督とニアリーイコール(=限りなく近い)なんです」と端的な答えが返ってきた。
英語で監督はヘッドコーチ、トレーナー、トレーナー&コーチなどの言い方があるが、マネジャーという呼称もよく聞く。クラブによってマネジャーの権限は異なるが、現場での指揮権のみならず、移籍やクラブ運営といったピッチ外に関わる力を持つことが多い。橋本の一言を、私は“自分が監督として目ざすところに行き着けば、クラブ運営もできます”というメッセージと受け取った。
<文中敬称略>
取材・文●中田 徹
PROFILE
はしもと・ひでお/1979年5月21日生まれ、大阪府大阪市出身。ガンバ大阪の下部組織で才能を育まれ、1998年にトップ昇格。練習生からプロ契約を勝ち取り、やがて不動のボランチとして君臨、J1初制覇やアジア制覇など西野朗体制下の黄金期を支えた。府内屈指の進学校・天王寺高校から大阪市立大学に一般入試で合格し、卒業した秀才。G大阪を2011年に退団したのちは、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪、AC長野パルセイロ、東京ヴェルディでプレー。2019年からJFLのFC今治に籍を置き、入団1年目で見事チームをJ3昇格に導く立役者のひとりとなった。2021年5月2日の第7節のテゲバジャーロ宮崎戦で、J3最年長得点(41歳と11か月11日)を記録。2022年は関西1部リーグ「おこしやす京都AC」に籍を置き、シーズン終了後にスパイクを脱いだ。日本代表はイビチャ・オシム政権下で重宝され、国際Aマッチ・15試合に出場。173センチ・68キロ。血液型O型。



