「ハリルに戦力外通告された後、FC東京が」ルーズなブラジル人がJ通算99発の“神助っ人”になるまで「日本の教えに感謝…エンドウは天才だ」
Jリーグで活躍したブラジルの名選手に今と現役時代の裏話を聞くインタビューシリーズ。FC東京とガンバ大阪でJ1、J2通算99ゴールを挙げるなど大活躍したFWルーカスに、今の意外な事業や日本への愛情を語ってもらった。〈全3回の2回目〉
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ルーカスはU-23代表に選ばれ、2000年のシドニー五輪にロナウジーニョらと共に出場した。当時の移籍金にして約33億円というクラブ史上最大の大型補強を敢行したフランスのレンヌへ迎え入れられ、「ロナウド2世」の呼び声で特大の期待をかけられた。
しかし、21歳の若者はフランスでの生活とリーグのプレースタイルへの適応に苦しんだ。そこではのちにサッカー日本代表監督となるヴァイッド・ハリルホジッチによって大きな挫折を味わった。そこから思いもしなかった国のクラブ、FC東京からオファーが舞い込んだ。当時の状況と偽らざる心境について、本人の口から語ってもらおう。
自信をなくしていた…FC東京も最初は断ろうと
――レンヌでの日々を簡潔に振り返ると、どのようなものだったのでしょうか。
「試合には出場していたが、点が取れなかった。そして、2002年10月に監督に就任したハリルホジッチから、『君は私の戦力構想に入っていない。別のクラブを探せ』 と言われた。やむなく、2002年後半はクルゼイロで、2003年はコリンチャンス(いずれもブラジルのクラブ)へ貸し出されたんだけど、やはり結果を出すことができない。僕は完全に自信をなくしていた」
――そこからFC東京へ移籍した経緯は?
「母国のクラブへ期限付き移籍を繰り返したが、やはり不調だった。そんなとき、代理人から『FC東京という日本のクラブからオファーがある』 と伝えられた」
――どう思いましたか?
「最初は、断ろうと思った。フランスでは失敗したけれど、欧州で活躍して世界的なスター選手になる夢をまだ諦めていなかったからね。でも、結婚したばかりの妻が、『そこがどんなクラブなのか調べてみたら』と言うんだ。当時、FC東京には僕がアトレチコ・パラナエンセでチームメイトだったFWケリー、U-20代表で一緒にプレーしたCBジャーンがいたから、電話をかけた」
――その結果は?
「2人とも『Jリーグの運営、クラブの練習施設、サポーターの熱心さなど、すべてが素晴らしい。絶対に来るべきだ』と口を揃える。そこで、妻とも相談した上で、FC東京への移籍を決意した」
日本人の心の温かさと繊細な気配りに感激したよ
――日本へ行ってみて、どうでしたか?
「ケリーとジャーンが言っていた通りだった。言葉、気候、習慣、メンタリティー、プレースタイルの違いはフランス以上に大きかったけれど、クラブ関係者が僕と妻を完璧にケアしてくれたから、比較的容易に適応できた。こういうケアは、欧州のクラブは絶対にやってくれない。日本人の心の温かさと繊細な気配りに感激したよ」
――あなたは、日本語がかなり話せますね。
「フランスではブラジル人選手だけで固まり、その他の国籍の選手との間に壁を作ってしまった。その反省から、言葉を学び、日本人選手に自分から話しかけて、溶け込もうとした。クラブ関係者、家の近所の人々とも良い関係を築こうと努力した」
――フランスでの失敗を教訓としたわけですね。当時のJリーグのレベルをどう思いましたか?
「技術的にはかなり高いレベルにあった。ただ、これはドゥンガやジーコも言っていたことだけど、当時の日本人選手には、いわゆる〈マリーシア〉が不足していた。頭を使って試合を自分のたちのペースに引き込み、確実に勝利を手にするのが下手だった」
“最初の半年間”は全くダメだったんだ
――シーズン当初は、なかなか結果が出なかった。
「フランスでの経験から、新しい国、新しいリーグではすぐに結果が出ないとわかっていた。我慢、我慢と自分に言い聞かせ、練習を積んで1日も早くチーム戦術に馴染むことを考えた。でも、最初の半年は全くダメだったな」
――Jリーグ開幕後、あなたは先発フル出場を続けました。初ゴールが、4月の第5節セレッソ大阪戦。6月の第12節ガンバ大阪戦で先制されながら2得点をあげてチームに逆転勝利をもたらし、その1週間後の名古屋グランパス戦では2点のビハインドを背負いながら、あなたの2得点などで劇的な逆転勝ちを収めます。この6月の2試合で波に乗ったのでは?
「ああ、そうか。とすると、3カ月で軌道に乗ったんだな。でも、それが半年に感じたくらい、苦しんだ」
ガンバに移籍した“決定的理由”とは
――どうしてこの苦境を乗り越えることができたのでしょうか?
「まず、原(博実)監督が僕の能力を信じ、結果が出なくても先発で起用してくれたこと。当初、アマラオ(2003年まで在籍)と同じようなプレーをすることを求められた。でも、僕は左右へ流れてボールを受けてリズムを作るタイプ。やがて、原さんはそのことを理解してくれた」
――2004年は27試合出場11得点。ナビスコ杯では準決勝の東京ヴェルディ戦でハットトリックを達成して勝利の立役者となり、優勝に貢献しました。ただし、2005年は横浜F・マリノス戦でCBジャーンと激突し、脳震盪で病院へ緊急搬送されるアクシデントがあった。
「この年のリーグ後半は不調で、一時はブラジル帰国を考えた。でも、2006年に監督がガーロに代わり、トップ下でプレーして調子を取り戻した」
――2006年は18得点、2007年も12得点とまずまずだった。この年の末、ガンバ大阪へ移籍した理由は?
「FC東京は家族的な雰囲気の素晴らしいクラブだったけれど、Jリーグ制覇には手が届かなかった。契約が満了し、ガンバ大阪からオファーを受け、大きなタイトルを取れるチームだと考えた」
エンドウ…何が起きても全く動じないんだ
――その願い通り、2008年にはAFCチャンピオンズリーグと天皇杯を制覇します。
「ガンバは経験豊富な西野朗監督が率いており、遠藤保仁というレジェンドがいて、勝者のメンタリティーがあった」
――遠藤のすごいところは?
「テクニックも状況判断も素晴らしいんだけど、最大の特長はあの冷静さ。何が起きても全く動じない。コロコロPKがその典型だけど、周囲をよく観察しながらも、決して自分のペースを崩さない。ハーフタイムに西野監督が選手たちに話をしていても、彼は平気な顔をして風呂に入っている。まるで、監督が何を言いたいのか僕は全部わかってますから、と言わんばかりにね。そして、実際に彼はすべてを理解している(笑)。天才だね」
――ガンバ大阪では、2009年、2010年も活躍します。7年続けて日本でプレーしたわけですが、欧州で活躍する夢を諦めたのですか?
「実は、複数の欧州クラブからオファーを受けた。でも、日本でのキャリアと生活が予想以上に素晴らしかったので、日本でプレーを続けることを選んだ」
――2011年、ブラジルへ帰国して古巣のアトレチコ・パラナエンセに入団しますが、この年をもって現役を引退します。
「当時、32歳だったんだけど、10歳のときからフットボール中心の生活を送ってきて、少し意欲が低下したと感じていた。練習をするのも億劫になり、もう潮時だと考えた。クラブには、盛大な引退セレモニーをしてもらった」
苦しめられた日本人DF、評価していたFWは
――ところが、その後、FC東京へ復帰します。そのいきさつは?
「引退から約1カ月後、FC東京の関係者から『J2で苦しんでいるので、J1復帰を助けてくれ』 という連絡を受けた。当初は『もう引退したんだ』 と言って断わったんだけど、どうしても諦めてくれない。結局、年末まで6カ月の契約ということで承諾した」
――そして、チームのJ1昇格、さらには天皇杯優勝に貢献。2013年までプレーしました。
「毎日、練習して試合に出るうち、かつてのフットボールへの情熱が蘇ってきた。愛するクラブを助けることができ、サポーターに喜んでもらえて、選手冥利に尽きた」
――日本で最も苦しめられたDFは?
「横浜F・マリノスの中澤佑二と浦和レッズ、名古屋グランパスにいた田中(マルクス闘莉王)だね。2人とも強靭な肉体の持ち主で、非常にハードにマークしてくる。あるとき、中澤が例によってハードな守備をしてくるのでポルトガル語で罵ったら、ポルトガル語で言い返してきたので驚いた(笑)。彼はブラジルへ留学したことがあって、ポルトガル語が分かるんだね。ジュビロ磐田の福西崇史も嫌だったな。あのハンサムが、涼しい顔で、えげつないプレーをするんだ(笑)。でも、2007年にFC東京でチームメイトになったらとても気の良い男で、すっかり仲良しになったけれどね」
――高く評価した日本人CFは?
「横浜F・マリノス、サンフレッチェ広島の久保竜彦とセレッソ大阪、ヴィッセル神戸の大久保嘉人だね。久保はとてつもない身体能力を持つ野性的なストライカーだったし、大久保は小柄だけど闘志の塊で、技術もある日本のロマーリオだった」
フランスでどん底に落ちたが、日本で蘇った
――欧州で成功してセレソン(ブラジル代表)に選ばれ、W杯に出場して世界一になる、という夢を一度は捨てて25歳で日本へ渡り、結果として合計9年半もプレーした。日本へ行って良かったと思いますか?
「自分にとって最高の選択だった。僕はフランスでどん底に落ちたが、日本で蘇った。さらに、人間としても大きく成長した」
――あなたは、とても誠実な人柄という評価を受けています。
「そう言ってくれる人が多いんだけど、日本に行くまではそうじゃなかった。時間にルーズだったり、約束を守らないことがあり、よく妻から注意されていた。でも、そういった人間として重要なことを、日本で日本人から教わった。そのことを、今でもとても感謝している」
――息子さん2人も選手を目指しているそうですね。
「長男ペドロは19歳のアタッカーで、地元のボタフォゴのU-20所属。すでにトップチームの公式戦でもプレーしている。次男ジョアンは16歳で、やはりボタフォゴのU-17所属。彼はMFだ」
――将来、もし2人が日本のクラブからオファーを受けたら、どうアドバイスしますか?
「日本は最高の場所だからぜひ行け、と言うよ。もしそれがFC東京かガンバ大阪なら、言うことなしだね」
――日本代表についてもお話を聞かせてください。
「ああ、試合はいつもテレビで見ているよ。久保建英とも直接話をしたことがある」
――そうなんですか? 〈つづく〉



