「借金は嫌だから自己資金。100軒売ったよ」不動産業で大成功…J通算99発ブラジル人FWの“意外な引退後”「33億円移籍で挫折」の真相も語る
Jリーグで活躍したブラジルの名選手に今と現役時代の裏話を聞くインタビューシリーズ。FC東京とガンバ大阪でJ1、J2通算99ゴールを挙げるなど大活躍したFWルーカスに、今の意外な事業や日本への愛情を語ってもらった。〈全3回の1回目〉
【写真】「い、家が超豪華…息子も愛娘もそっくり」“神助っ人”ルーカスは不動産業で大成功してた…ハリルに戦力外通告されたフランス時代からFC東京、ガンバユニを着てニコニコの今まで全部見る
これまで、ブラジルで数多くの選手や監督にインタビューしてきた。彼らの大半が、邸宅が点在する閉じられた広大な区画(コンドミニオ)の中に居を構える。ここへ出入りするには厳しいセキュリティチェックがあり、構内では100%の安全が確保される。
この男はサンパウロ州内陸地の人口70万人余りの地方都市リベイロン・プレットのコンドミニオに住んでいると聞いていたが――現地へ行ったところ、コンドミニオの中のさらに別のコンドミニオに家があると知って驚いた。壮麗な2階建ての邸宅の前で、長身の逞しい体つきの男が笑顔で出迎えてくれた。
ルーカス・セベリーノ、45歳。現役時代より少しふっくらしているが、血色が良く、とても元気そうだ。J1通算268試合90ゴールの実績を残した名選手の家の中へ招き入れられ、再び驚いた。妻、3人の子供の5人家族だそうだが、センスの良い調度品をしつらえた大きな居間と食堂があり、芝生が敷き詰められた庭とプールが見える。2階には、6つの寝室、書斎などがあるそうだ。
これまで取材で多くの邸宅を見てきたが、その中でも指折りの豪華さ。選手として大きな成功を収め、なおかつ引退後も事業などで成功していることが見て取れた。
借金は嫌だから自己資金。100軒は販売したかな
――現在は、不動産業に携わっているそうですね。
「2008年に、他の2人の共同経営者と一緒に、土地を購入して家やアパートを建設し、販売する会社を設立した。一人は古くからの知り合いのエンジニアで、もう一人はかつて一緒にプレーしたことがあるプロ選手だ」
――建設資金は、銀行から借り入れたのですか?
「いや、借金を背負うのが嫌だったから、すべて自己資金。最初は小さな土地を買い、大衆向けの家を建てて販売した。仕事が軌道に乗ると、もっと広い土地を購入し、大きくてハイグレードの家を建設、販売するようになった」
――なぜこの業種を選んだのですか?
「ブラジルは広大な国で、土地が比較的安く買えるし、地域によっては多くの人口が流入していて、良い不動産が必要とされる。投資として有望だと考えたし、他の共同経営者の能力と人柄を信頼していたからね」
――ここは素晴らしい邸宅ですが、ひょっとしてこの家もあなたの会社が建てたのですか?
「いや、ここは違う。でも、同じような家は建てているよ」
――これまでにどれくらいの家を建設、販売したのですか?
「ここリベイロン・プレットで30軒、クリチーバで70軒くらいかな。お陰様で、うまく行っているよ」
――あなたは生まれも育ちも、リベイロン・プレットですね。この町は、かつてセレソン(ブラジル代表)でMFとして活躍したソクラテスとライーの兄弟ら名選手を輩出しています。どのような家庭に育ったのですか?
「9人兄弟の上から5番目で、4男。父親は郊外の大きなサトウキビ畑の労働者で、同じ畑で働く100以上の家族が村を造って住んでいた。その中に、各種商店、病院、学校、フットボール場などがあった。父親がフットボールが大好きで、僕は歩けるようになるとすぐに手ほどきを受けた。彼は、少年時代、地元のアマチュアチームで右SBとしてプレーし、プロクラブのテストを受けて合格したそうだ。でも、祖父がサトウキビ畑の労働者で、子供を含む一家全員が畑で働かなければならなかったから、プロになる夢は断念したと聞いた」
U-20代表ではFC東京で同僚になるジャーンと
――最初に所属したチームと、プロを目指そうと思ったきっかけは?
「村の少年チーム。ポジションはCFで、ずっと年上の子供たちともプレーした。1986年、7歳のときにW杯メキシコ大会をテレビで見て、CFカレッカに憧れた。彼のような強力なストライカーになりたい、と強く思ったんだ」
――実は、僕はあの大会を現地で観戦して、準々決勝フランス戦のカレッカの先制ゴールも見たんですよ。
「へええ、そうなのか。それは素晴らしいし、羨ましいな」
――その後は、どのような道を歩んだのですか?
「10歳で地元のボタフォゴ(注:リオの古豪ボタフォゴと通称が同じだが、別のクラブ。ソクラテスやライーを育んだ)のU-11のテストを受けて合格した。U-11は市内に住む選手を集めただけだから弱かったのだけど、U-15ではサンパウロ州全土から選手を集めたので強くなった。サンパウロのビッグクラブのU-15と対戦しても互角に戦えるようになった」
――プロデビューは1995年9月、16歳のときですね。
「ブラジル3部の試合に出場したんだけど、緊張のあまり足が動かず、得点はおろか、シュートすら打てなかった。でも、次の試合で右からのクロスを頭で決め、初得点を記録した。96年にはプロ契約を結び、収入が大幅に増えた(チーム最多の12ゴールで2部昇格に貢献)。1997年7月にはU-20ブラジル代表に選ばれ、これでプロとしてやっていける、という手応えをつかんだ。このときのメンバーに、後にFC東京でチームメイトとなるCBジャーンがいたんだ」
――そんな縁があったんですか。若手屈指のCFとしてオファーが殺到し、1998年5月、19歳で南部の強豪アトレチコ・パラナエンセへ移籍します。
「リベイロン・プレットは1年中暑いんだけど、クリチーバは冬はかなり冷える。知っている人が誰もいなかったし、適応に苦しんだ。最初はCFの控え。でも、レギュラーが故障して使ってもらえるようになり、ポジションを手にした。1999年には6月、クラブが建設した新スタジアムのこけら落としの試合でクラブ初のゴールを決めたのが記憶に残る。そして、翌年のコパ・リベルタドーレスの出場枠を争う大会の決勝クルゼイロ戦の第1レグでハットトリックを達成した。1部で28試合12ゴール。プロとしての土台を築いた年となったんだ」
当時破格の“33億円移籍”…その真相とは
――この活躍で欧州クラブの注目を集めました。2000年前半、イタリアの名門インテルからオファーを受けます。名物会長マッシモ・モラッティが「我々はロナウド2世を手に入れる」と語り、獲得を確信したとか。しかしその後、フランスの中堅クラブであるレンヌが2100万ユーロ(約33億円)という当時破格の移籍金を提示し、入団が決まった。当時の真相は語れますか?
「ああ。インテル移籍が決まりかけて、ワクワクしていた。しかし、レンヌのオーナーがインテルの2倍の移籍金を提示したんだ。代理人から『このクラブは大型補強をしており、近い将来、ビッグクラブの仲間入りをするはず』と説得されて行くことになった」
――そしてU-23代表に選ばれ、2000年7月、シドニー五輪に出場します。このときのメンバーに、ロナウジーニョ(当時グレミオ)がいました。
「宇宙人だね。信じられないほどのテクニックの持ち主で、ドリブルでもパスでもシュートでも完璧にやってのける。敵も味方も唖然としていた」
――五輪ではグループステージ突破を懸けて日本とも対戦しました。このときの日本は宮本恒靖 、松田直樹、中澤佑二、中田英寿、中村俊輔、稲本潤一、高原直泰、柳沢敦らを揃え、監督はA代表と兼務するフィリップ・トルシエ。2年後の自国開催のW杯を見据えたチームでした。対戦した印象は?
「じつはそれまで僕は日本のフットボールについて何も知らなかったんだけど、個々の選手の技術レベルが高く、戦術的にもよく訓練されていることに驚いた。立ち上がりの得点を守り切って勝ったんだけど、この国は必ず強くなる、と思った」
ハリルに戦力外通告されたんだ
――しかし、ブラジルは準々決勝でカメルーンの前に敗退し、その後レンヌへと合流します。
「五輪は延長の末、ゴールデンゴールで負けて本当に悔しかった。そしてフランスでは『ロナウド2世』という表現が独り歩きしており、過大な期待をかけられていたんだ。当時、僕は21歳。異なる言語、習慣、メンタリティーなどに適応するのが困難だった。また、当時のフランスリーグはフィジカルを前面に押し出すスタイルで、ブラジルとは全く違っていた」
――かなり戸惑ったわけですね。
「開けっぴろげなブラジル人と比べて、フランス人はよそよそしく感じた。僕を含めて4人のブラジル人選手だけで固まっていた。フランス語を覚えようとせず、他のチームメイトとはあまり交わらず……これが間違いだった。また、監督が毎年交代し、その度に戦術が変わるから、混乱したんだ」
――2000-01シーズンは、リーグで28試合4得点。2001-02年は33試合2得点でした。
「じつはこの時、ヴァイッド・ハリルホジッチ(後の日本代表監督)から事実上の戦力外通告を受けたんだ」 ――えっ、そうなんですか? 〈つづく〉



