稲本潤一が28年間のキャリアに幕。引退会見で何を語ったか。決断の理由、セカンドキャリアは?
フランスに0-5完敗「あの負けが一番ショックだった」
17歳だった1997年にガンバ大阪で衝撃的なデビューを飾り、海外4か国7クラブでプレー。2002年日韓、06年ドイツ、10年南アフリカと三度のワールドカップに出場したボランチ稲本潤一(南葛SC)。45歳になった彼が、今季限りで28年間の現役生活に終止符を打つことを決断し、12月4日に都内で引退会見に臨んだ。
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「今シーズンをもって引退することを決めました」という挨拶から会見をスタートさせた稲本。南葛の高橋陽一オーナー兼社長から、南葛を最後のクラブに選んでくれたことを感謝され、描き下ろしイラストも贈られた。
そのうえで、「正直、ここ2~3年は毎年引退を考えていました。でも子どもができたり、南葛で試合に出たりといろんな理由があって、毎年先延ばししてきました。でも今年はチームの力になれないなと。僕自身が勝たせるパフォーマンスをすることが厳しいと感じたので決断に至りました」と、稲本は改めてキャリアに区切りをつけた理由を、スッキリとした表情で語っていた。
その後、長いキャリアを振り返る質疑応答が行なわれ、最も印象的な試合として、本人は「(2001年3月に)サンドニでフランス代表に0-5で負けた試合」を挙げた。
「あの負けが一番ショックだった。当時の僕は海外に行きたくて、代理人をつけて、いろんな人に見に来てもらっていたのに、それを全部なしにするくらいの結果でショックだったし、世界との大きな差を感じた。日本にいてはダメだと再認識した試合でした」
世界で一番凄いと感じた選手は、ジネディーヌ・ジダンだ。
「僕は当時、自分のタイミングでボールを取りに行けば、どんな相手でも取れる自信があったのに、ジダンからはまったく取れなかった。雨でピッチがグチャグチャで、日本の選手は全員ポイント式のスパイクを履いていたのに、フランスの選手は固定だった。それも衝撃だったし、ものすごいレベル差を感じましたね」と神妙な面持ちで話す。
その惨敗がもともと持っていた海外志向に火をつけ、同年夏に当時世界最高クラブだったアーセナルへ移籍。02年日韓W杯のベルギー戦、ロシア戦でのゴールにつなげた。
「正直、あの大会がなかったら、引退会見にこんなに人が来ていない(笑)。あれをきっかけに自分の名前を世界の人たちに知ってもらった。その後もワールドカップのたびに映像を流してもらえますし、僕自身も思い出すことも多い。点を取って良かったなと思います」と、本人は22年前の偉業を懐かしそうに振り返っていた。
「黄金世代」として一世を風靡
あれから日本代表はW杯で三度のベスト16進出を経験。稲本は様々な環境から、その成長を見守ってきた。
「今の日本代表はワールドカップ優勝を目標に掲げていますけど、この調子でいけば可能性はあると思う」と力強くコメント。かつてフィリップ・トルシエ監督が「もっとたくさんの選手が欧州に行かないと、日本代表は強くならない」と語っていた通り、今では100人近い選手が欧州でプレーする時代になったことを前向きに捉えていた。
そうやって飛躍を続ける日本サッカー界を、稲本はこの先、指導者として支えていく構えだ。
「これだけやってきて現場から離れるのがすごく寂しい。たぶん指導者の道を歩んでいくことになると思います。こればかりは僕がやりたいと言っても、受け入れ先がないと何も始まらないんですけど、できれば指導者として、現場で楽しかったり、悔しかったりという思いをしていきたい」と抱負を述べた。
ご存じの通り、稲本は小野伸二や高原直泰らとともに「黄金世代」として一世を風靡した。その仲間たちにもこの日の朝、メッセージを入れたという。
「みんな『お疲れ様』というのがパラパラ来ましたけど、播戸(竜二)からは『もうお前が現役か現役じゃないかっていうイジりができないのが寂しい』というメッセージが来ましたね」と冗談交じりに話したが、1つの時代が終焉を迎えたのも確かだ。
その事実に一抹の寂しさを覚える人も少なくないだろうが、稲本には未来がある。この先、彼が新たな人生をどのように歩んでいくのか。それを興味深く見守りたいものである。



