【ルーツ探訪】G大阪・米倉恒貴|急成長の礎を築いた少年時代のトレーニングぶり SOCCER DIGEST Web 12月4日(金)6時0分配信

小学校時代は「亮平のほうが速かったし特長が際立っていた」

 JFLも経験したルーキー時代を経て、そこから着実に階段を駆け上がると、昨季はG大阪の三冠達成にも貢献し、今年7月にはA代表にも選出された。12 月5日のJリーグチャンピオンシップ決勝・第2戦では、G大阪が逆転優勝を狙うこのゲームでのスタメンも濃厚だ。そんな米倉の急成長の土台となったのは、 親友と切磋琢磨しながら目標に向かって邁進した日々だった。

――◆――◆――

生真面目な彼を中心に、仲間が集まって楽しいサッカーをする。米倉恒貴の少年時代は、この連鎖によって育まれた。

1988年5月17日。米倉は千葉県千葉市で生まれた。サッカーをやっていた父と、その道に倣ってサッカーを始めた4歳上の兄の影響を受け、小学1年の時から自然とこのスポーツにのめり込んだ。

地元のクラブチームである西小中台FCでプレーし、高いパスセンスと技術を買われ、5年時からスタートする地域選抜チーム『FC千葉なのはな』の一員としても活動。スペイン遠征も経験したが、その際にエスパニョールとの試合で、骨折するアクシデントに見舞われた。

「せっかくの海外遠征だったのに、彼は怪我で残りの試合に出られなかった。ただそれでも、あっけらかんとしていた(笑)。やんちゃで素直って感じでしたね」

こう語るのは縄田健司氏。現在はFC千葉なのはなの監督を務める一方、なのはな接骨院を経営し、習志野高サッカー部のトレーナーとしても活動する。当時、スペイン遠征に帯同し、米倉らを指導した。

「彼は本当に小さかったけど、空間把握能力や基礎技術は高かった。でも県選抜にも入っていなかったし、決して目立つ存在ではなかったのも事実。むしろ亮平のほうが速いし、特長が際立っていた」(縄田)

この『亮平』とは、現在アルビレックス新潟でプレーする山崎亮平だ。米倉と幼なじみで、小学、中学、高校と同じ道を歩んだ親友でもある。スピードに乗っ たドリブルと高い決定力を持つ山崎のほうが目立つ存在で、身体が小さい米倉はどうしても見劣りしたという。だが、親友の存在が、のちのち米倉を上のステー ジに引き上げる要因となる。

小学6年生の時に大きな転機が訪れた。縄田が中心となり、それまでジュニアチームだけ活動していたFC千葉なのはなに、ジュニアユースチームが作られたのだ。

とにかくサボらず、自分に厳しく高い意識を持って取り組む。

 米倉と山崎はFC千葉なのはなの第1期生。タレント揃いだった当時のチームは、ジュニアユースの創設に伴い、高いレベルでの切磋琢磨を続けた。そうした日々を経て、米倉の心境にも変化が生まれたようだ。

「中学1年の頃から、身体ができてくるとともに、徐々に自信も備わってきた。中学2年時にはキャプテンをやって、リーダーシップも発揮していましたね」(縄田)

もともとリーダー気質を有していた米倉だったが、小学校時代は身体が小さく、プレー面もどこか大人しかった。それが中学に上がって成長期に入ると、心身のイメージが噛み合い始め、自信の深まりとともに統率力も自然と身に付けていった。

縄田の目にはその片鱗が見えていた。
「恒貴は罰ゲームでも一生懸命やる子でした。例えばミニゲームで負けて、スクワットやダッシュなどの罰ゲームが3回だとしたら、それ以上の5回、10回を やる。ラインまで走るような時も、足が届いた振りをするのではなく、必ずまたいで折り返す。とにかくサボりませんでした。これは昔指導に関わった福田健二 (現・夢想駿其/香港)、玉田圭司(現・C大阪)、阿部勇樹(現・浦和)や羽生直剛(現・FC東京)も同じ。100メートルダッシュなどでも途中で力を抜 かない。必ず最後までやり切っていた」

練習では決して手を抜かず、常に自分に厳しく、高い意識を持ってやる。そうした姿勢が、成長の土台となったのは間違いない。

中学3年時の2003年。高円宮杯U-15第15回全日本ユースサッカー選手権で3位と躍進した。一気に注目を浴びるFC千葉なのはなジュニアユース。なかでも米倉と山崎の名は関係者の知るところとなった。

高校進学の際、彼らの元には強豪校やJクラブユースから複数のオファーが届いた。千葉の名門・市立船橋高と流通経済大柏高も含まれたが、彼らが選んだのはそのどれでもなく、県立の八千代高だった。

同校は97年の選手権で羽生らを擁してベスト8に進出するなど、全国レベルの力を有していた。しかし、県内には市立船橋高と流通経済大柏高の2大勢力が存在し、この壁を打ち破って全国へ駒を進めるのは至難の業だった。

「市船、流経大柏を倒して全国に行きたい。そして、プロになりたい」

米倉は確固たる決意とともに、八千代高を選択。FC千葉なのはなジュニアユースから同校に進学したのは、米倉と山崎を含めて6人だった。

「加入当初から、ものすごく意識の高い選手ばかりだった。特に米倉はキャプテンタイプでしっかり者。身体能力も高かったので、山崎と一緒に1年時からレギュラーで使いました」

こう語るのは、当時、八千代高サッカー部の監督だった砂金伸。現在は県内の強豪校である習志野高で指揮を執っているが、米倉とは不思議な縁で結ばれていた。

Share Button