「中田の次に海外へ行く怪物ストライカー」から「ケガで20歳で戦力外通告」へ…「日本一多忙」なセカンドキャリアを歩む「元Jリーガー・小松原学」の挑戦
今年に入って遠藤保仁(G大阪トップチームコーチ)、松井大輔、岡崎慎司(シントトロイデン)とかつてW杯を戦った日本代表戦士たちの現役引退発表が相次いでいる。
【写真】大谷翔平がメジャーに行く前に「熟読していた文庫本」、その「本の名前」
彼らは2010年南アフリカW杯の中心メンバーで、当時の代表23人のうち、今も現役を続けているのは、3月の2026年北中米W杯アジア2次予選・北朝鮮戦にサプライズ選出された長友佑都(FC東京)ら7人だけ。時の流れの速さを実感させられる。
選手生活に区切りをつけると、次なる人生の身の振り方を考えなければいけなくなる。遠藤のように古巣からオファーが舞い込んだり、松井のようにイベントやメディアに引っ張りだこな人間はその後の生活に困ることは少ないが、毎年のように大物が引退するため、サッカー界の椅子取りゲームは熾烈を極める一方である。
世知辛い事情をいち早く悟り、多彩な活動に乗り出しているのが、元Jリーガーの小松原学(42)だ。
「中田英寿の次に海外へ行くのはこの男」と評されたストライカー
彼がベルマーレ平塚(現湘南)でプロデビューしたのは98年。まだ平塚学園高校在学中の17歳で、「中田英寿の次に海外へ行くのはこの男」と評されたほどの怪物ストライカーだった。当時、同じピッチに立ったことのある元日本代表の中澤佑二(解説者)や、稲本潤一(南葛SC)からも「衝撃を受けた選手」と特別視されており、ポテンシャルの高さは頭抜けていた。
「Jリーガーになりたての頃の月収は100万円。18歳になってすぐに400万円のデカいアメ車を買うほど、生意気な小僧だったと思います」と本人も苦笑するが、華々しい時期は長続きしなかった。その要因はケガだった。
19歳の時に左足第5中足骨骨折の重傷を負ったが、適切な処置が行われず、体のバランスが崩れてパフォーマンスが低下していった。2001年末に湘南から戦力外通告を受け、2002年にヴァンフォーレ甲府へ赴いたものの、負傷箇所が手の施しようのない状態になっていることが判明。疲労骨折なども重なり、1年でまたも契約満了を突きつけられた。
その後、地元群馬のFCホリコシ(2011年に消滅)でキャリアを続行したが、24歳だった2005年に選手キャリアに終止符を打つことを決断。同世代の松井や大久保嘉人(解説者)らが世界へ羽ばたく傍らで、小松原はケガに苦しんだ経験から鍼灸整骨院の開業を決意。柔道整復師・鍼灸あんまマッサージ師の専門学校に入学し、アルバイトを掛け持ちしながら生計を立て、勉強に勤しんだという。
「当時は睡眠時間は2~3時間でした」
「一番苦労したのはこの時期かな。現役時代の貯金がほとんどなくて、教育ローンを借りて学校に約6年、通いました。昼間は勉強して夜は温浴施設のマッサージやサッカー教室のアルバイトを掛け持ちしていたから、睡眠時間は2~3時間。若かったから持ちましたね」と本人も笑う。
その間に結婚し、長男も誕生した。妻は「本当にお金がなくて大変でした」と苦笑するが、自分で何とかしようという夫の姿を目の当たりにして、必死にサポートした。こうした努力の甲斐あって、2011年末までには4つ(柔道整復師・鍼師・灸師・あん摩マッサージ指圧師)の資格を取得。2012年に故郷・群馬県邑楽郡邑楽町に「Pass鍼灸整骨院」を開業するまでに至った。
「実は最初、地元の信用金庫に融資を門前払いされたんです。だけど、平塚時代の飲み仲間が平塚信用金庫のトップにつないでくれて、そこから群馬の方に話が行って、1000万円を借りることができた。やっぱりモノを言うのは人のつながりなんですよね。
ただ、建物をリフォームし、高周波治療器や酸素カプセル、エコーなど、さまざまな機器を導入するとなると、相当なコストがかかります。資金繰りは厳しいですが、やると決めた以上はやるしかない」と彼はグイグイと突き進んでいったのだ。
とどまらない小松原の野心
常人なら苦労して開いた鍼灸整骨院を軌道に乗せることだけに集中するものだが、小松原の野心はそこだけにとどまらなかった。整骨院開業前、まだ学生だった2010年に「Jeoサッカークリニック」というスクールをいち早く立ち上げ、邑楽町の1400坪もある雑木林をグランドにすべく、自ら動いたのである。
「サッカー指導に関しては最初は考えていなかったんですけど、アルバイトで手伝っていた館林のスクールがとん挫したので、子供たちを引き取って教えようと思ったのが始まりです。
そのためにはグランドがないと難しい。邑楽のちょうどいい場所があったので、地主のおばあさんに頼み込んで承諾を取り付け、木を伐根して土を慣らす作業からひとつひとつやりましたね。途中で重機を借りることができ、2011年からは使えるようにもなりました」
鍼灸整骨院とサッカースクールの二足の草鞋を履くようになった小松原。2014年にはNPO法人「ラファーガC.F.」を設立し、スクール名を改名し、小中学生70~80人が常時活動する組織を整えた。専任コーチも採用し、彼自身もJFA公認指導者ライセンスを取得を進め、今では最高峰のS級の下に当たるA級ジェネラルまで上り詰め、フィジカルコーチC級まで取ったという。
アグレッシブな男はそれに飽きたらず、超難関資格であるアスレティッククトレーナー(AT)の資格を取ろうと一念発起した。コロナ禍の2年間は東京・渋谷の学校に朝一番で通って授業を受け、午後に群馬に戻って診療、サッカー指導をするという超多忙な生活を送った。そして念願のATも合格。あらゆる角度から診療ができる体制を整えたのである。
猪突猛進ともいえる勢いで突き進む小松原だが、そんな彼にも悩みがあるという。
*小松原学さんの日々の活動はInstagramでも更新されています。
詳しくは後編記事『「『元Jリーガー』は引退後もサッカーにしがみついていたら難しい」…がむしゃらに突き進む「小松原学」の現役引退後の「多忙な毎日」』でお伝えする。