現役時代から信頼されてきた宮本恒靖氏「親は先に死ぬからな」中学1年で自立を認識した母の言葉

元日本代表DFの宮本恒靖氏(47)が、日本サッカー協会(JFA)の第15代会長就任から一夜明けた24日、都内で取材に応じた。

マラドーナに憧れ、小学5年の時にソフトボールからサッカーに転向し、各年代の日本代表、Jリーグ、欧州リーグなどで選手としての実績を積んだ。

引退後は、国際サッカー連盟(FIFA)が主催する大学院のFIFAマスターを卒業し、キャリアに国際経験を加えた。ガンバ大阪のアンダーカテゴリーやトップチームで監督を経験し、22年3月にJFA理事に就任し、同時に会長補佐や国際委員長を兼務した。翌23年2月には専務理事に就任。JFAで2年間、主にサッカーに関わる経営などを学んだ。

宮本会長 すべての経験は点と点がつながり、今があると思っている。私の座右の銘は「今を生きる」ですが、それは中学の時に見た映画の「今を生きる」からです。目の前に対して100%で臨む。その点が、のちにつながることもあります。私の今までの経験、選手や指導者など、すべての経験がつながり、周りの協力を得て、日本サッカーをいい方向へ進めたい。

7歳からソフトボールをやっていた。ポジションは捕手。スポーツに足を踏み入れることに、当時は両親から反対されたという。「無理やからやめとけ。宮本家の血筋は、そんな人いないんやろう」。サッカーに転向し、頭角を現しても両親は見向きもしてくれなかった。

子供のサッカーの試合には、親が応援に来てくれることが多いが、宮本少年の両親は来てくれなかった。寂しさもあったが「父が会社員で母は中学の先生。夜10時に家に帰って寝る、みたいな生活だったので、親は忙しいんだと、自分で納得してました。初めて試合に来てくれたのは(日本代表)U-17の国立の試合で、それもたまたま母親が東京出張で、ついでに見に来てくれたものです」という。

母の弘子さんは中学の英語教師で、曽祖父は明治時代に海外留学をするなど、語学に縁がある家系だった。それもあってか、宮本会長は「4カ国語、話せます。日本語と英語とドイツ語と…あとは関西語です」と大阪生まれだけに、笑いを誘うことも忘れない。

宮本会長 母から英語を学ぶこともありました。怒られることもあって、ワン・ツー・スリーと言ったら怒られましたね。「トゥーだろう」って。

現役時代からしっかり者として、仲間から信頼されてきた。だからどのチームに入っても「キャプテンはツネ」と異論なく、けん引役を任されてきた。1人の人間として自立を認識したのは、中学1年の時からだ。それまで両親に甘えるなどごく普通の男の子だったが「母から中学1年の時に“親は先に死ぬからな。(3歳上の)お姉ちゃんと力合わせて生きていかなあかんで”と言われましたね。両親の影響を受けています」と振り返る。

「自分1人じゃ何にもできない。だからみんなの協力を得て前に進みたい」という。今を100%の力で生き抜き、その点と点が合わさって、日本サッカー界のトップに上り詰めた。

宮本新会長は、JFAの職員、各地方協会、女子など各競技団体、少年サッカーからJリーグまでの各カテゴリー、その全てのサッカーファミリーの点と点を集約していくことで、日本サッカーの発展に貢献していくつもりだ。【盧載鎭】

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