“天才・宇佐美貴史”に小、中学校で気遅れした男が“スペイン語のプロ”として同僚に…「選ばれた者しか入れない」Jリーグで通訳になるまで
クラブ史上初となるスペイン人指揮官、ダニエル・ポヤトス監督を招聘し、新たなスタイルの構築を目指しているガンバ大阪。一時は最下位に転落も、5月28日のアルビレックス新潟戦以降のリーグ戦は6勝1分という「V字回復」でリーグ戦の中断期間を迎えている。そんなガンバ大阪で奮闘する一人の通訳がいる。「プラチナ世代」の1学年下で、自身も京都サンガのアカデミーで活躍した岡井孝憲さんだ。宇佐美貴史とのマッチアップ歴も持つ岡井さんに、サッカー人生やスペインサッカー観を聞いた《全2回の1回目/#2につづく》。
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徳島ヴォルティス時代からダニエル・ポヤトス監督の通訳兼アシスタントコーチを務め、今年1月にガンバ大阪の通訳に就任した岡井さん。宇佐美貴史との「再会」の会話が、かつて逸材だったことを物語る。
宇佐美「あれ、こいつ顔見たことがあるな」
一学年上に当たる宇佐美は「顔は分かっていましたよ。徳島の時に『あれ、こいつ顔見たことがあるな』って。サンガというよりはその前の紫光(クラブ)のイメージが強かったですけど」と小学生時代の岡井さんを覚えていた。
「遠い存在だった宇佐美くんに、彼が育ったガンバ大阪でこういった立場で巡り合うことが出来て、すごく夢のようであり、すごく光栄に思った瞬間でしたね。しかも覚えていてくれました。『宇佐美くん』って声をかけたら、『お前、紫光の奴やんな』みたいな感じで声をかけてくれて、会話をし始めて『覚えてますか』と聞いたら、『名前は覚えてなかったけど、存在は覚えてるよ』と言ってくれました」
岡井さんは京都の少年サッカーで名門として知られる京都紫光サッカークラブ出身。2005年には全日本少年サッカー大会京都府大会の決勝で長岡京SSと対戦し、岡井さんの放ったシュートからオウンゴールを誘発。前年まで宇佐美がいた長岡京SSを下し、18年ぶりに全国大会に出場。岡井さん自身も栄えある京都府のベストイレブンに選ばれている。
「宇佐美くんと最初に対戦したのは小学校の時ですね。宇佐美くんは絶対知ってるんですけど、園部陸上競技場でやった全日の予選でよくある長岡京時代の宇佐美くんがピッチをドリブルで爆走している試合の映像がテレビで流れたことがあって、僕はそこの端っこに映っています(笑)。小学校の時からずば抜けていましたね」
練習中は「タカシ」、ピッチ外では「宇佐美くん」
京都サンガのU-15に合格し、京都の育成年代ではエリートコースを歩んでいた岡井さん。その履歴書の豪華さを物語るのは2006年のナショナルトレセン関西のメンバー入りだ。関西の精鋭32人の中に中学1年で選出された岡井さんだが、中学2年の顔ぶれには宇佐美や大森晃太郎、小川慶治朗、杉本健勇、宮吉拓実ら1992年生まれの「プラチナ世代」が揃っていた。
「ナショトレでは最後の日に関西の一員としての他の地域と対戦したんですけど、その時の1学年上は特にどこの地域を見ても名前がすごかったです。それこそヴェルディ(当時)の高木善朗くんとかがいて、どの地区を見ても凄かった。関西も僕が憧れている選手が目の前でプレーしていて、一選手として参加していましたけど、夢のような凄いところに来てしまったなって思っていました」
もちろん、京都サンガのU-15でプロを目指していた岡井さん。自身の学年ではCB、1学年上に招集されていた際には右SBでプレーしていたこともあって、ガンバ大阪ジュニアユースの「天才」ともマッチアップした経験を持つ。
「13歳か14歳の時に対戦しましたけど、宇佐美くんの存在はずっと嫌でしたね。当然上手いし、今でもそうですけど、独特なシュートのリズムを持っていました。ただ、僕もサンガでは1学年上の宮吉くんとか駒井(善成)くんと対人をしていたので、全く遜色なく対応できたとは言いませんけど、ある程度、宇佐美くんに対して怖さはなくマッチアップしましたよ。ただ、名前で負けていましたね。『宇佐美』という存在には(笑)。今も練習中は監督と同じ『タカシ』って呼びますけど、ピッチを離れたら『宇佐美くん』ですね」
大学で出場機会を得られず、選んだのはスペインだった
育成年代でエリートコースを歩んでいても、順当にプロ選手になれるのはごく一部。順当に京都サンガのU-18に昇格しながらも、同期だった久保裕也や原川力、高橋祐治がトップ昇格を果たした一方、岡井さんはU-18に卒業時には夢を果たせず、スカラーアスリートプロジェクトとして提携する立命館大学に進学。大学サッカーを経て、プロの世界を目指した。
しかし、立命館大学で思うように出場機会を得られず、岡井さんは新たな人生を模索する。行き先はスペインだった。
「プロになるのは厳しいと思ったのは2年生か3年生ぐらいの時でした。Jリーグの色々な知り合いに話を聞いたんですけど、僕の状況が悪すぎて。試合にも出てなかったですから。アジアか、欧州に行くならスペインかなと。このままなら自分の夢も消えていくという感覚があって、刺激が欲しかった。それでお世話になってる方に、『スペインに行く道はありますか』と聞いたら、1カ月ぐらいならすぐ留学できるということでお願いしました。3年の夏に1カ月だけ個人留学をして、スペインで当時4部のチームに練習参加の形で行ってきました」
近年では日本からスペインへサッカー留学する選手や指導者は珍しくないが、何故、「情熱の国」を目指したのか。それは、京都サンガのアカデミー時代に得た貴重な経験ゆえだった。
「ヨーロッパに行くなら絶対スペインだなと思っていました。サンガのプロジェクトで中学2年の時にバルセロナ、高校2年でもバルセロナ、高校3年でマドリーに遠征したんですけど、スペインの文化とか、気質が自分のフィーリングと相性が良かった。当時、バルサも好きであのサッカーにすごく魅力を感じていましたし、僕の希望をつなげてくれる方もいたのでもう『スペインに行きます』という感じでした」
言語はまだまだなのに「指導に興味はないか」
幼い頃から憧れた、Jリーガーへの夢は断ち切らざるを得なかった岡井さんだが大学卒業後、スペインに渡った当初は、現地の地域リーグでプレーしながら、少しでも上のカテゴリーにステップアップする青写真を描いていたという。もちろん、プロ契約ではないため、無給でプレーする日々だったが、スペインに渡って2年目に所属していたカニェージェスというクラブで、岡井さんの人生が大きく動き始める。
「元々、僕は指導者に興味があって、スペインに行くと決めた時は、サッカーの経験値を選手として高めること、語学の習得、そして指導者としての勉強の3つが目標としてありました。いずれ道が開けた時に指導者をやりたいなと思ったら、まだ2年目の僕にチャンスを与えてくれたんです。カニェージェスの育成ダイレクターが『お前は指導に興味はないのか』って。言葉もそんなに喋れない上に、6歳か7歳の小学生を教えないといけませんでした。僕はバルセロナでの生活はそれほど長くないと決めていたので、ライセンスを持ってなかったんですが、すごく面白いなと思った。『全然問題ないよ』と言ってもらい1番下のカテゴリーの指導をすることになりました」
試合中に喧嘩も起きるし、殺気も…
スペインで指導者のスクールに通い、約1年をかけて日本ではA級ライセンスに相当する資格を取得。U-8とU-9では監督を務め、U-15のコーチも担当。そして選手としても夜9時から活動する「三足の草鞋」を履く生活でハードな日々を過ごしていた。選手、そして指導者として充実した日々だった。
「2年目の指導を始めたぐらいからは、選手としての活動はフェードアウトさせながら、指導者としての道を歩んでいこうという覚悟がありました。ただ、選手として得たものもあります。僕が実際にプレーしたのはアマチュアのカテゴリーでしたが、選手には激しさや汚さもあるし、普通に削ってきます。試合中に喧嘩も起きるし、日本では絶対に起こらない殺気みたいなものも感じました。今スペイン人監督と仕事をしている中で、常々スペイン人が口にする体の向きの大事さにもあの時期に改めて気付かされましたね」
通訳として「選ばれたものしか入れない世界」へ
指導者として上を目指す覚悟を定め、2020年からは京都の育成年代でコーチとして活動していた岡井さんだが、2020年に再び人生が大きく動き出した。2021年から徳島ヴォルティスを率いることになるポヤトス監督の通訳として、白羽の矢が立ったのだ。
「今でもよく覚えていますけど、正直、緊張しました。指導者の誘いを受けたスペインの2年目の感覚に似ているというか、『このチャンスを逃したら絶対にアカンな』っていう思いがありました。スペインで指導する時も、思い切って飛びこみました。通訳よりも本当は指導者に魅力を感じていたんですけど、誰しもがこの世界に入れる訳じゃない。選ばれた者しか入れない世界。通訳の候補は何人かいたらしいですが、『絶対やりたい』と紹介してくれた方には伝えましたね」
<#2につづく>