「川崎から自転車で来たんですよ」「この台風の中で?」神戸まで残り36kmで試合中止…“ある川崎Fサポの悲劇”が感動的な結末を迎えるまで
川崎Fのユニフォームが支えになった
川崎育ちの小野田治矢さんが、川崎フロンターレのサポーターになったのは2019年のことだ。
味の素スタジアムで観たFC東京との多摩川クラシコ(2019年7月14日/第19節)で、完璧とも言える内容で3-0の完勝。会心のゲームにハートを撃ち抜かれた。
「その試合が最高に面白かったんですよ。完全にハマって、すぐに後援会に入りました。3点目を決めた阿部ちゃん(阿部浩之/現・湘南ベルマーレ)のユニフォームを買って『推してくぞ!』って。次の年に移籍しちゃいましたけど(笑)」
小野田さんは「チャリ神戸」に5枚の選手ユニフォームを持参し、日替わりで着用して走っている。
2019年から、毎年1枚ずつ購入してきたものだ。歴代選手を振り返ると、19年は阿部浩之、20年は長谷川竜也、21年は三笘薫、22年は宮城天、そして今年が名願斗哉だ。共通点があるとすれば、「左サイドで自ら突破口を作るタイプ」といったところだろうか。
「ゴールを目指して、自分で切り開いていくタイプが好きなんです。僕自身、彼らのように前に向かってチャレンジする気持ちを少しでも持っていたいので」
歴代の“推し選手”のネームが入ったユニフォームを着て走ったことで、過酷な自転車旅の間も「本当に勇気づけられました」と話す。
「彼らの存在が背中を押してくれるんですよ。例えば2日目の途中でやめたら、そのときに着ているハセタツ(長谷川竜也)に申し訳ないじゃないですか(笑)。3日目の三笘薫のときは一番楽に快走できたので、やはり“持っている男”ですね。4日目の宮城天も、ゴールしていたときに着ていた名願斗哉もそうですが、挫けそうな心をユニフォームが支えてくれました。普通のTシャツだったら、結果は違ったかもしれません」
サポーターにとってユニフォームとは、特別な力が宿るアイテムなのだ。
スマートフォンに「とんでもない数の通知」が…
大雨によって、宮城天のユニフォームがずぶ濡れになったという4日目。
滋賀県大津市付近で、ゲリラ豪雨の緊急警報の通知が届いた。なんとかビルの物陰に避難したものの、防水のスマートフォンが一時的に使えなくなるほどの雨に見舞われた。翌日も悪天候が予想されるため、安全を考えて移動は諦め、体力を回復しつつ大津で連泊することに決めた。
残りはおよそ100km。時速10kmで計算しても、深夜に出発すれば昼ごろには神戸に着く計算である。14時のキックオフにも十分に間に合う。悪天候による思わぬ足止めを受けたが、ゴールは確実に近づいている。
そもそも、神戸まで行けるとは思わずに始めた自転車旅だ。完走を目の前にすると、興奮でなかなか仮眠もできなかった。深夜2時。大津のホテルでチェックアウトを告げると、フロントのスタッフに「えっ? こんな時間に?」と驚かれた。それもそうだろう。こんな深夜に出発する客などいない。
街灯の明かりを頼りに、夜道で自転車を漕ぎ始めた。真夜中に始まったラストランだったが、標識の「京都」や「大阪」という地名が目に入るたび、目的地が近づいてきているのがわかる。もう雨は降っていなかった。徐々に夜が明けはじめ、美しい朝焼けに感動しながら神戸を目指してペダルを回し続けた。
一方で、不安もあった。
台風2号の影響で、前日から東海道新幹線が運転見合わせとなっていたのだ。それでも小野田さんは、試合開催に関する情報をなるべく入れないように走っていた。「走っている間は、試合と選手のことばかり考えていました」と笑う。
「誰が出るのかな、首位(当時)から勝ち点3を絶対に取りたいな……。そんなことをあれこれと想像しながら(笑)。絶対に勝ちたい試合でゴールを決めてくれるのは小林悠のイメージがあるし、でも宮代大聖にも決めてほしいし……。今の自分の推しは名願なので、『ここで出てくれたら最高だな』とか。生で見るイニエスタも初めてだし、ノエビア自体が初めてなので、楽しみだな、もうすぐ到着するんだよな、って(笑)」
なにせ現地は台風一過で快晴である。試合が開催されないわけがない。そう信じて走り続けていると、ある川沿いで行き止まりになった。あまりにも綺麗な場所だったので、写真を撮ろうと思ってスマートフォンを見ると、とんでもない数の通知が届いていた。
試合中止の一報に呆然、そして爆笑
嫌な予感がした。
恐る恐るTwitterを開くと、その多くは「大丈夫ですか?」という心配の声だった。
その言葉が何を意味しているのか。小野田さんはすぐに察することができた。さらに、川崎フロンターレの公式LINEから「試合中止」の告知も届いていた。何も考えられず、しばらく頭の中が真っ白になった。朝8時過ぎの出来事である。
「ああいうときって、本当に時間が止まるんですよ……。この時点で約570km。あと少しというところで、試合がなくなってしまった。とりあえず、中止を知ったことを投稿しなきゃと思って、セルフタイマーを設定して写真を撮りました」
Twitterに「残り36キロで訪れた悲劇。」と投稿し、しばし放心状態になった。なぜだかわからないが、笑いが込み上げてきて仕方がなかった。小野田さんは、ただただその場で爆笑していた。
奇妙な光景だったのだろう。近くを散歩していたおじさんから「どうしたんですか?」と声をかけられた。
「川崎から自転車で来たんですよ」
「……この台風の中で? 何しに?」
「サッカーの試合を見にきたんです。でも、中止になってしまって……」
事情を理解したおじさんも、一緒に笑ってくれた。
呆然と爆笑の間に30分が過ぎていた。「#悲劇のラスト36キロ」というハッシュタグを付けた小野田さんのツイートはバズり、やがてTwitterのトレンド入りを果たした。スマホの通知は止まらず、もはや返信も「いいね」もできないほどだった。
なお、運転見合わせにより前日移動のできなかった川崎フロンターレの選手たちは、試合当日の新幹線移動に備えてホテルに前泊して待機していた。試合中止が発表されたのは、ちょうど朝食の時間帯だ。バズっている小野田さんのツイートをスタッフが発見し、「チャリで神戸に向かっていたサポーターがいる」という情報は選手たちの間でも話題になっていたそうである。
取材時にこの話を小野田さんに伝えると「マジですか……? うわ、恥ずかしい! いやあ、神戸まで行ってよかった……」と嬉しそうに赤面していた。 その後、小野田さんは残りの36kmを走り抜くことを宣言し、活動再開。快調に走行を続け、無事ノエビアスタジアム神戸に到着した。
夢か現実か…まさかの感動的なフィナーレ
そこでは、信じられない景色が待っていた。
ヴィッセル神戸のスタッフが横断幕と旗を掲げ、小野田さんのための花道を用意して出迎えてくれたのである。もちろん、本人はそんな粋な演出を知らされていない。その様子を眺めながら、他人事のように通り過ぎようとしていた。
「せっかくだからスタジアムのまわりを一周しようかなと思っていたら、赤い旗を振っている人たちがいたので、『大学の応援団の練習かな?』って。邪魔をしたら申し訳ないので迂回しようと思ったら、周りの人たちが拍手し始めて……。でも、まさか自分に向けた拍手だとは思わないですよ。ただ、途中から『これ、もしかして俺のためなのか?』とわかって怖くなっちゃいました(笑)」
予想だにしない大歓迎に戸惑っていると、神戸のスタッフから「みんなで出迎えるので、あちら側から回ってきてください」と声をかけられ、言われるがままにゴールテープを切った。ハイタッチを求められ、周囲からの拍手も鳴り止まない。目の前の現実を整理できないまま迎えた、感動的なフィナーレとなった。
丁寧にお礼を伝え、その場から立ち去ろうとした小野田さんだったが、神戸スタッフの計らいでピッチサイドに案内された。スタジアムに足を踏み入れ、本来であれば見るはずのなかった景色を目の当たりにする。イニエスタの等身大パネルとも記念撮影をした。
「もう、ただただ恐縮と感謝です……。一般人なのに写真もたくさん撮ってくれて、めちゃくちゃ嬉しかったですけど、ちょっと恥ずかしかったですね(笑)」
小野田さんの一連のエピソードは瞬く間にニュースとして拡散し、ラジオやテレビのオファーも届いた。今回の自転車旅でお世話になった人たちへの恩返しも兼ねて、出来るかぎり出演することにした。「テレビを作る側」の自分が出る側になるのは不思議な感覚だったが、それもいい経験だと捉えているという。
「勝手にチャリで神戸に行って、台風で試合が中止になっただけですから、勘違いしてはいけない、調子に乗ってはいけない……と自分に言い聞かせています(笑)。元々イクパッパさんの企画が好きで、自分もやってみたかった。本当にそれだけで、何か素晴らしいメッセージを掲げて走ったわけじゃないですから」
そう言って、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「軽い気持ちでやると、すっごく後悔します(笑)」
あの「チャリ神戸」から、およそ1カ月半が過ぎた。その後、小野田さんは川崎フロンターレからもオファーを受け、7月8日には横浜FC戦のハーフタイムショーに出演。等々力陸上競技場でも自転車走行を見せている。
延期となった7月22日の神戸戦でのリベンジは、現在のところは考えていないそうだ。しかし「チャリ神戸」で自転車旅の楽しさ、多くの人のあたたかさに触れたことは、小野田さんの人生の大きな財産になった。
「今後もタイミングを見つけて、自転車でどこかのスタジアムに行ってみたいですね。まったく話題にならなくてもいいので、ひっそりと……。アドバイスですか? 僕なんかが言えることはそんなにないですけど、軽い気持ちでやると、すっごく後悔するのでやらないほうがいいです(笑)」
いつかまた、川崎から遠く離れたスタジアムを目指して自転車を漕ぎ続ける小野田さんの姿が見られるかもしれない。