彼はなぜ自転車で川崎から神戸に…?「長津田でやめたくなりました(笑)」600kmを走り抜いた川崎Fサポの“ロードムービーのような旅路”
2023年6月、ひとりの川崎フロンターレサポーターが、自転車で川崎~神戸間の約600kmを完走した。しかしゴール直前、台風2号の影響により、目当てにしていた神戸での試合は中止に。ロードムービーのような“感動の結末”が各所で話題を呼んだ「チャリ神戸」の当事者は、どんな思いでペダルを漕ぎ続けたのか。本人を直撃し、過酷な旅路の内幕を語ってもらった。(全2回の1回目/後編へ)
【写真】「落ち込み方がハンパない…」ゴール目前の悲劇から感動のフィナーレへ。話題を集めた川崎~神戸「600kmの自転車旅」を本人撮影写真でイッキに見る(全36枚)
なぜ自転車で神戸に?「本当に単なるノリでした」
いつか自分もやってみたい――。
誰しもそんな「やってみたいことリスト」を持っているものだが、それが壮大なチャレンジの場合、実際にやってみせる人は稀である。此岸と彼岸。「やってみたい」と「やってみた」の間には、途方もないほど広く大きな川が流れているものだ。だが、彼は川を渡ってみることにした。
小野田治矢。故・志村けんさんをこよなく愛し、番組制作会社に勤める34歳のテレビマンである。きっかけは、ガンバ大阪を応援するYouTube『イクパッパちゃんねる』だった。一昨年に配信された、等々力陸上競技場からパナソニックスタジアム吹田まで自転車で行く企画「チャリパナ」に、イチ視聴者として触発されたのだ。
「『等々力からパナスタに自転車で行くなんて! 』ってワクワクしながら見ていました。めちゃくちゃ楽しそうだったので、いつか自分もやってみたいなって……」
だから、最初は軽い気持ちだった。「本当に単なるノリでした」と笑う。
「3つ上の兄に、小さいころから『ノリは大事だぞ』と教わってきて(笑)。もともと今年やるつもりはなかったんです。ただ、奇跡的にスケジュールが空いて、急に1週間の休みが取れることになった。しかもイニエスタを生で見ることができる最後のチャンスかもしれないので『よし、行くか! 今しかないか! 』とノリで決めちゃいましたね」
ノリで実行したので、準備や計画も綿密に進めていたわけではなかった。 たとえば、旅の相棒となったロードバイク。
約2年前に祖師ヶ谷大蔵の「木梨サイクル」で購入したものだ。木梨サイクルといえば、とんねるず・木梨憲武さんの実家が営んでいる自転車店として有名だろう。バラエティ好きである小野田さんは、ここで自転車を購入すると貼ってもらえる木梨サイクルのステッカーが欲しかった。ロードバイクの相場も知らず、予算は2~3万円程度で考えていたが、実際の値段は約15万円。その場で青ざめたが、持ち前のノリで「買います!」と即決した。
「勢いがなければ買えないタイプなんですよ。ただ、予算は10万円以上オーバー……。あとでちょっと後悔しましたね(笑)」
完走はイメージできず「浜松まで行けたらOKだろう」
木梨サイクルのステッカーが目当てだったので、自転車に目覚めたわけではない。長距離の旅に出る予定もなく、休日に近所を乗り回す程度だった。そんな相棒と、川崎から神戸まで約600kmもの大冒険をするのだから、人生はわからないものだ。
元々、小野田さんは川崎フロンターレのサポーター界隈で有名な人物だったわけではなかった。YouTuberでもなければ、自身のTwitterアカウントである「夜へ急ぐ人」のフォロワー数も200人ほど。「フォロワーの約8割は好きなテレビ番組関連で、残りの2割が川崎フロンターレ関係、という感じでした」。平たく言ってしまえば、ごく一般的なサポーターだ。
今回の旅も、特にSNSで告知をせずに始めている。注目を集めるためではなく、あくまでも自分が楽しむことが目的だったからである。「近しい友人や『イクパッパちゃんねる』が好きなフォロワーが楽しめる日記のような感じでツイートしていこう」と、ゆるく考えていたそうだ。折しも台風2号が日本列島に接近しており、連日の雨予報だったが、さほど気にも留めていなかった。
「そもそも、本当に神戸まで自転車でたどり着けるとは思ってなかったんですよ。とりあえず浜松まで行けたら新幹線もあるし、それでOKだろうと思っていたぐらいです。途中でリタイアしても『イクパッパちゃんねる』さんの雰囲気はある程度は味わえるし、あとはゆっくり観光でもしながら、試合を楽しめればいいかなって」
「き、きつすぎる…」開始20kmでリタイアを検討
5月29日、月曜日。
小野田さんは等々力陸上競技場から出発した。目標は6月3日のキックオフまでに、ノエビアスタジアム神戸に到着することだ。川崎フロンターレのユニフォームを身に纏い、セルフィーを撮ってTwitterで出発する旨をつぶやいてみた。「チャリ神戸」が初めて公になった瞬間である。「誰かが少しでも反応してくれればいいな」というささやかな願いを込めて、ひっそりとスタートした自転車旅だった。
意外なことに、Twitterでは最初の投稿から良好な反応が返ってきた。
普段は1つか2つしかつかない「いいね」が一気に20もついたのだ。「ほとんど経験したことがないので驚きました」と小野田さんは明かした。だが、走り始めてすぐに、この旅が“無謀”だったことに気付かされたという。
まず、荷物が多すぎた。
自転車旅は、いかに装備をコンパクトにまとめるかがカギである。だが初心者であるがゆえに、必要以上の重装備でスタートしてしまったのだ。 「初めてなので勝手がわからず、リュックをパンパンにしてしまいました(笑)。ユニフォームはさておき、汗をかくだろうからと替えのTシャツや、絶対に必要ないパジャマまで持っていってしまった。なのに、絶対に必要なモバイルバッテリーは持っていない(道中で購入)という……。今だったら、荷物は半分くらいになると思いますね」
そんな重装備でペダルを漕ぎ続けるのはハードワークだ。日頃の運動不足もあり、開始早々に両脚が悲鳴をあげた。
「本当にめちゃくちゃきつくて……。けっこう走ったなと思っても、たったの5kmしか進んでなかった。自分で勝手に始めたのに『こんなにきついなんて聞いてないよ! 』って(笑)」
さらに出発直後に寄せられた、あるコメントに愕然とする。
「チャリパナは電動だったので無理なさらず!」
……そうだったの?
説明するまでもないが、脚に力を入れて漕がなくても走行できる電動アシスト自転車と、完全人力のロードバイクでは、身体の負担に雲泥の差がある。想像以上の過酷さと準備不足により、等々力から約20km地点の長津田(神奈川県内)でリタイアを考えたほどだった。小野田さんは「今ならまだ間に合う……」と弱気が顔をのぞかせたと苦笑する。
「でも流石に長津田でリタイアしたら『いやいや、そんな序盤で諦めるのかよ! このフロンターレサポ、マジか? 』となりますよね(笑)。Twitterでもエールが送られてきていたし、そんな簡単にやめられない。とりあえず、行けるところまで行こう、って……」
川崎フロンターレのユニフォームを着ている以上、簡単にギブアップしてはいけない。そんな意地と使命感を胸に、小野田さんは力強くペダルを漕いでいった。
「今日はどこまで?」の声に背中を押され…
相模川を越えた付近で雨は本降りになり、初日の難所である箱根の峠道に入ったころには、すでに日没を迎えていた。1日の走行目安は120kmで、初日の目的地である静岡県沼津市はまだまだ遠い。降りしきる雨の中で、より慎重に走行していく。峠道では行き交うトラックの風に煽られるため、上りの坂道は漕がずに手押しでゆっくりと進んだ。結局、目的地である沼津市内の健康ランドに到着したのは深夜1時ごろだった。
もちろん疲労困憊だ。太ももはパンパンになり、「足が棒になる」とはこのことか、と感じたという。
「これはもう無理だ。俺は頑張った。中途半端に変な場所でリタイアするよりも、静岡県なら新幹線も通ってる。もう十分だ……」
限界まで走り抜いた自分にそう言い聞かせた。翌日の朝に撤退を宣言することにして、なかば倒れ込むように眠りにつく。これにて「チャリ神戸」は終了……のはずだった。
ところが、である。
目を覚ますと、深夜に投稿した沼津到着のつぶやきに数え切れないほどの「いいね」がついていたのだ。「今日はどこまで行くんですか?」というリプライも複数届いており、今さら「きついので、やめました」などとは言えない空気になっていた。そんな声に背中を押されるように、小野田さんは再び自転車を漕ぎ始めた。
2日目は「一番ハードだった」と振り返る静岡県の旅だった。
「静岡は横に長いので全然終わらないんです。雨は降っているし、駿河湾は灰色だし、富士山の『ふ』の字も見えなかった……。だから、食と休憩しか楽しみがなかったですね。静岡では行きたいところが2つあって、1つはエスパルスサポーターのYouTuberがひいきにしている『しゃぶしゃぶ かむり』。もう1つは有名な『さわやか』です。かむりは到着した時間が合わずに食べられなかったのですが、さわやかのハンバーグは藤枝で食べました。食べた後はもう、本気で動きたくなくなりましたよ(笑)」
悪天候にも疲労にも負けず、2日目は最長距離の140kmを走った。
雨の降る夜の峠道で心霊スポットの「夜泣き石」と不意に遭遇し、泣きそうになりながらも静岡県内を突き進んだ。命からがら目的地である浜松のホテルに辿り着くと、すぐさま爆睡。疲れ果てていたので眠りは信じられないほど深く、目が覚めたのはチェックアウト時間の20分前だった。
“他サポ”の応援や心遣いに感激
3日目からは、反響も明らかに増えてきた。
国道の看板の写真を撮ってアップすると「そこ、実家のめっちゃ近くです!」とリプライが飛んでくる。フロンターレではなく、他クラブのサポーターから「頑張ってください」という応援が届くようにもなった。小野田さんにとって、かつて味わったことのない新鮮な感覚だった。
「どこにでもいる一般人なのに、まるでアスリートのような気持ちを疑似体験できたというか……。自分の人生でそんな経験は今までなかったので、ありがたかったですね。3日目には、名古屋サポーターの方から『ぜひおもてなししたいので連絡ください! 』とDMが届いたんです。名古屋のあんまきをごちそうになり、ういろうも買ってくださって、自転車で観光名所や神社を案内してくれました。勝手に始めて、勝手に苦しんでいる他クラブのサポーターに、なんでこんな親切にしてくれるんだろう……って感激しましたね。そんなこと、いつもの生活じゃありえないじゃないですか」
小野田さんの自転車旅は、雨との戦いでもあった。
台風2号の接近により、各地で線状降水帯が発生した。天候に恵まれても決して楽ではない600kmの旅路は、風雨によってますます険しい道のりになった。もちろん、試合中止のリスクもゼロではない。そんな状況下で、何を思いながらペダルを踏みしめていたのだろうか。
「台風の情報はあったんですけど、試合が中止になるとは考えもしませんでした。いや、なんとなく『もしや……』とは感じていたんですけど(笑)。そこはもう現実逃避というか、なるべく考えないようにしていましたね」
そして、この悪天候が想像もしていなかった光景を小野田さんに見せることになる。 <#2に続く>