「育成のガンバ」が目指す未来は? 30年前からの伝統を知る松波正信、禁断の移籍で抱いた危機感

連載・地方創生から見た「Jリーグ30周年」第5回、大阪【前編】

サッカー・Jリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、1993年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。

【画像】ゴール裏スタンドに“万博のシンボル”が出現 通算60試合目の「大阪ダービー」の風景  長年にわたって全国津々浦々のクラブを取材してきた写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、2023年という節目の年にピッチ内だけに限らない価値を探し求めていく連載、「地方創生から見た『Jリーグ30周年』」。第5回は大阪を訪問し、「育成」をテーマにガンバ大阪とセレッソ大阪の姿を追う。前編では「ミスターガンバ」としてファンから愛され、引退後は2クラブの育成部門も見てきた、現ガンバ大阪アカデミーダイレクターの松波正信氏に話を聞いた。(取材・文=宇都宮 徹壱)

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劇的でありながら、なんともあっけない幕切れであった。

GWのさなかの5月3日、ガンバ大阪の本拠地パナソニックスタジアム吹田で、公式戦60試合目となる大阪ダービーが開催された。コロナ禍以降では最多、3万4517人を集めて14時キックオフとなったこの試合は、28分にレオ・セアラのゴールでセレッソが先制。ガンバも56分にダワンが同点ゴールを決め、その後は拮抗した展開が終了間際まで続いた。

しかし90分、セレッソは左サイドを駆け上がった山中亮輔のピンポイントクロスに、途中出場の加藤陸次樹が頭で合わせてネットを揺らす。結局、2-1でセレッソが勝利。負けてはならない相手に4連敗を喫したことに加え、2度目の降格の危機が迫ってきたことに、ガンバのゴール裏からは激しいブーイングが発せられた。

「今はトップチームの仕事から離れていますけれど、やっぱり大阪ダービーになると緊張感はありますね」

キックオフ前、私は「ミスターガンバ」に話を聞く機会を得た。ガンバ大阪のアカデミーダイレクター、松波正信。Jリーグが開幕した1993年にプロデビューした高卒ルーキーも、今年で49歳になる。

「本当は帝京(高校)から順天堂(大学)に進学する予定だったんです。2学年上に名波(浩)さんがいて、『どんなパスがもらえるんだろう』という楽しみがあったんですよね。僕はFWでしたから、いいパスを出してくれる人というのが、進路選びで最も重視していました。結果的に帝京の先輩である、礒貝(洋光)さんがいたガンバを選んだわけですけれど」

問題は「古沼(貞雄)先生が許してくれるか」だった。帝京の名伯楽は当時、日本サッカーのプロ化について「どうなるか分からん」と懐疑的だったという。進学が決まりかけていただけに「怒られるかな?」とも思ったが、恩師は快く背中を押してくれた。

ルーキーイヤーでの活躍ぶりは、トピックスに事欠かない。クラブ史上初の入団会見を行い、ファーストステージ第11節のサンフレッチェ広島戦に初スタメンすると初ゴールを記録。しかもこれがJリーグ通算100ゴール目となった。19歳の誕生日を翌日に控えた、セカンドステージ第14節のジェフユナイテッド市原戦では、ハットトリックを達成。これは現在でも、J1での最年少ハットトリックとなっている。

「Jリーグ通算100ゴールって、ほとんど顧みられることがないんですよね。1の次は500とか1000とかじゃないですか」と苦笑交じりに語る松波。ガンバ一筋だった現役時代の13シーズンは、280試合に出場して45ゴール。J1プレーヤーのまま、2005年にスパイクを脱いだ。

「現役時代は降格こそなかったものの、チームがなかなか勝てない時代が続いていたし、タイトルにも縁がない。『いつかはガンバでタイトルを』と思っている間に、年月が流れていった感じです。現役最後のシーズンで、ようやくJ1優勝に間に合うことができたのは、本当に良かったです」

37歳でトップチーム監督就任、J2降格で味わった挫折

引退後の松波はガンバに残り、指導者の道を目指すこととなる。ガンバで引退して、そのまま指導者となるのは、当時ユース監督だった島田貴裕に次いで2人目。最初はコーチを務めていたが、島田がS級ライセンス取得に専念することとなり、2008年にはユースの監督に昇格。この年のJユースカップでは、チームを6年ぶりとなる優勝に導いている。

松波が育成の指導を始めた2006年当時、すでに「育成のガンバ」というブランドは確立されていた。そんな中でも松波は、現役引退から間もなかったこともあり、なるべく自分で手本を示して選手に体感させることに、指導の主眼を置いていたという。

「今とは違って、当時は人工芝が1面あるだけ。ユースとジュニアユースで半面ずつ使っていました。限られたスペースの中で、どうやって上手くなるのか。そこは指導者の腕の見せどころでしたね。そんな中、ウチが特に重視していたのが4対2のボール回し。判断とテクニックといった、サッカーの基本のすべてが、あの中に詰まっていますからね」

その後、2009年にS級を取得すると、10年にトップチームのコーチに就任。ガンバの黄金時代を築き上げた、西野朗監督の下で2年間、学ぶこととなる。

「ガンバの育成に関して、西野さんからは『技術はあるけど、試合の勝負どころはまだまだ。もっとしっかり指導していかないと』とダメ出しされることもありました。それでも2年間、いろいろ学ばせていただきました。ただ、3年目で自分が監督になるとは思いませんでしたが」

2012年、10シーズンにわたる西野監督時代が終わり、ブラジル人のジョゼ・カルロス・セホーンが新監督に就任(実際には、呂比須ワグナーとの2頭体制)。ところが開幕からの公式戦で5連敗を喫し、3月26日にはあっけなく解任されてしまう。後任の指揮官に選ばれたのは、コーチだった松波。クラブOBでは初、クラブ最年少(37歳)での就任であった。それでも当人は、極めて前向きに、このオファーを受け止めたという。

「どんな形であれ、チームを託してもらえたのは嬉しかったですね。『いつかは(トップチームの)監督に』と思っていましたから。自信ですか? 西野さんの下で2年間修行してきましたし、タレントも揃っていましたので『行けるんじゃないか』と。結果として力及ばず、J2降格となってしまったのは、本当に申し訳なく思っています」

当人の言葉どおり、この年のガンバは17位に終わり、クラブ史上初のJ2降格が決定。天皇杯では3年ぶりに決勝に進出したものの、柏レイソルに敗れてACL連続出場は5大会で途切れることとなった。大会後、ガンバは松波監督の退任と、クラブアンバサダー就任を発表。それから1年後の2014年、松波はガンバから離れる決断を下す。

新天地での仕事は、この年からJ3所属となったガイナーレ鳥取の監督。縁もゆかりもない土地だったが、当人いわく「将来的なキャリアアップになると思って、迷うことなく鳥取でお世話になることにしました」。高卒ルーキーでガンバに入団してから、すでに21年の歳月が流れていた。

セレッソ大阪U-18への「禁断の移籍」から学んだこと

その後、2シーズンにわたる鳥取での仕事を終え、2016年に松波は大阪に戻ってくる。ただし古巣のガンバではなく、宿命のライバルであるセレッソ大阪U-18コーチへの就任。ミスターガンバと呼ばれた男の「禁断の移籍」には、両クラブのファン・サポーターが色めき立った。

当時のセレッソは、大熊兄弟の時代。兄の清が強化部長とトップチーム監督を兼任しており、弟の裕司はアカデミーダイレクター兼U-23監督。弟とはS級が同期で、その縁でセレッソの練習を見学していた時に、弟の裕司から「ウチに来ないか」と声を懸けられたという。

「最初は断ったんですよ。そうしたら、もう一度お誘いをいただいて、その時に『ガンバもセレッソも関係ない。関西のレベルを上げることが日本サッカーの育成に寄与することになるんだから』と言われて、覚悟を決めました」

すでにセレッソU-18からは、柿谷曜一朗、山口蛍、南野拓実といった逸材たちが日本代表に、そして世界に羽ばたいていた。それでも「ガンバに追いつき追い越せ」というのが、育成現場での共通認識。松波がスカウトされたのも、そうした事情があったのは間違いないだろう。

松波自身、セレッソU-18での2年間は学びが多かったと振り返る。

「当時のセレッソは、技術もさることながら、ハードワークやインテンシティを重視していました。ただしガンバと比べて、やっぱり技術や判断や戦術といったところで、少し劣っていたように思います。ですから、ガンバの良い部分は見習いつつも『セレッソのフィロソフィーは曲げずに落とし込んでいきたい』というのが、当時の大熊さんたちの考え方でした」

そうした姿勢に感心しつつ、松波は古巣への密かな危惧を抱いていたという。

「セレッソの育成には、当時から柔軟性と発展性が感じられました。一方のガンバには、これまで培ってきたことを大事にしすぎている、という印象があったんです。伝統を否定するわけではないんですが、いつまでもそれにこだわっていたら、いずれセレッソに追い抜かれてしまうのではないか。そんな危機感を持っていましたね」

2018年、4年にわたる模索の旅を終えて、松波はガンバに帰還する。今度のポジションは、アカデミーダイレクター。2021年5月14日には、宮本恒靖の解任に伴い、再びトップチームの監督に就任することとなるが、今度は13位で残留を果たすことができた。その後は育成のトップとしての仕事に戻り、現在に至っている。

「育成の指導って、毎日のように変化が感じられるんですよ。『俺、上手くなっているんだ』という実感が、子供たちの表情から手に取るように伝わってくる。その瞬間というものは、トップチームの勝利とは、また違った喜びが味わえるんですよね」

インタビューの最後に、あえて松波に尋ねてみた。「トップチームの監督と育成の指導、どちらが楽しいですか?」と。即答で「今のほうが楽しいですね(笑)」。そして、こう続ける。

「ガンバの育成で育った選手が、トップチームで活躍して、引退後に指導者として次世代を育てていく。すでに、そうしたサイクルは完成しています。指導者のクオリティや経験値の向上は、単にガンバというクラブだけでなく、地域の子供たちにも還元されていくのが理想的ですよね。僕自身、サッカーの育成を通じて、新たな喜びを地域に提供できればと思っています」

大阪ダービー後、やや持ち直したとはいえ、依然として厳しい戦いが続く今季のガンバ大阪。個人的には、ミスターガンバの3度目のトップチーム監督就任がないことを、密かに願っている。やはりこの人の天職は、育成現場にあると強く感じるからだ。(文中敬称略)

宇都宮 徹壱 1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)で2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した。

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