関学DF濃野公人はなぜ鹿島入りを決断したのか。常勝軍団の“立ち返る場所”に魂が震えた。「一番大切にしてきたものがここにはある」

サッカーになると人が変わる性格

2023年6月9日、関西学院大4年生DF濃野公人の2024年シーズンからの鹿島アントラーズ入りが発表された。

【PHOTO】鹿島アントラーズの歴史を彩った名手たちと歴代ユニホームを厳選ショットで一挙紹介!

熊本県の大津高時代はFW、トップ下として、抜群のポジショニングとボールを受ける技術、ターンからパスを散らしたり、裏に抜けたりと、最前線での動き出しが多彩な選手だった。

高校3年生では左サイドハーフでチャンスメイクからフィニッシュワークにまで関わる選手となり、関西学院大に来てからは2年生で右サイドハーフ、3年生から右サイドバックにコンバート。持ち前の攻撃センスをさらに開花させ、大学屈指のサイドバックにまで成長を遂げた。

濃野の長所は『頭』にある。常にサッカーを客観的に捉え、チーム戦術や個人戦術を駆使して、どのポジション、フォーメーションでも持ち味を発揮できるからこそ、そのキャリアと能力が形成された。

今回、インタビューを通して彼のサッカー人生、サッカー観、そして進路選択の裏側に迫った。

――◆――◆――

「昔からお世話になったコーチなど、僕に携わったほとんどの大人たちが、『公人は負けず嫌い』と口を揃えて言います。それは僕自身も自覚があって、どんなに小さなミニゲーム、1対1でもすごく負けたくない、どんな手を使ってでも勝ちたいという気持ちを持っていて、それが今も全然変わっていないんです」

濃野はこう自分の性格を分析する。小さい頃から練習のミニゲームでも、「いかにして勝つか」を常に考えていた。普段はもの静かで多くを語る性格ではないが、負けると感情が出てしまうこともあり、よく周りから「サッカーになったら人が変わる」と今でもよく言われるという。

「サッカーになったら何かが吹っ切れるというか、スイッチが入るんです」

この性格が鹿島入りに大きく影響した。その経緯を書く前に、濃野のこれまでに触れていきたい。

大阪府茨木市で生まれ育った。小さい頃から2つ上の兄を追ってサッカーを始め、サッカーが好きで、ガンバ大阪ファンの父親によく万博記念陸上競技場にG大阪の試合観戦に連れて行ってもらった。

小学校3年生の時に父親の転勤で福岡県筑紫野市に引っ越すと、強豪のヴァレンティアFCに加入し、中学進学と同時にサガン鳥栖U-15に進んだ。

持ち前の負けず嫌いをベースに、「僕はずっと小さいほうだったので、ポジショニングをすごく重視していて、いかに相手に捕まらないポジションを取り続けて勝負を仕掛けることをずっと考えていた」と、FWとして絶妙なポジショニングと裏へのスピードを駆使して、レシーバーとしてもフィニッシャーとしても機能するFWとなった。

関学で新天地を見出す

高校進学は複数の選択肢があるなかで、鳥栖U-18ではなく、兄が通っていた大津高を熱望。理由は、大津が彼の負けず嫌いの性格を刺激する環境であったからだった。

「父親がずっと小さい頃から『大津高校はいいぞ』と言っていましたし、実際に兄の試合を学校のグラウンドまで見に行った時も、どれがAチームか分からないくらい、Bチームの選手がAチームと変わらない熱量でサッカーをしているところとかを見て、『この環境は凄いな。ここで揉まれたら絶対に成長できる』と思ったんです。

試合の前後も練習の時も、常にチームに活気があって、一人ひとりがギラついていて、『俺が追い求めるものはこれだな』と思って入学しました」

高校1年生の時は分厚い選手層の前に試合に出られなかったが、2年生になると出番を掴むようになった。そして3年生の時、FWと併用して左サイドハーフでも起用されることになった。

FWでも左サイドハーフでも頭が良い選手であることがすぐに分かるほど、ポジショニング、周りとの関わり方、そして個での仕掛けどころの判断は抜群だった。大学進学を希望していた濃野は、筑波大を希望していたが、ちょうどこの時、成長期はピークを迎えていて、高校1年から3年にかけて身長が10センチ以上伸びたことで、オスグッドを併発しており、筑波大の練習には参加できなかった。

「筑波大に行けないなと思った時に、真っ先に浮かんだのが関学でした。父がずっと『関西学院大に行ってくれたら俺は万々歳だ』と言っていましたし、ちょうど2年生の時の天皇杯でガンバと関学が試合したのを、ガンバファンとしてテレビで見たんです。

そうしたら、ガンバに内定していた山本悠樹選手がいた関学が勝って、もう衝撃しかありませんでした。その時に関学はどんな大学かを調べて、『この大学いいな』と思っていたのを思い出して、平岡和徳総監督にお願いしたんです」

季節は9月でかなり遅い逆オファーだったが、関学は濃野のプレーを見て獲得を決断してくれたことにより、関西で大学サッカー生活をスタートさせた。

関学に来たことで濃野は新天地を見出すことができた。大学2年生の途中でFWから右サイドハーフにコンバートされると、3年生のスタートから右サイドバックに。当初はFWに未練があり、高校の恩師である山城純也監督に「右サイドでプロになれる自信はないです」と相談したこともあった。

「プロのスカウトはそのポジションだけで見ていない。どういう選手かを見ているからこそ、与えられたところで輝いてほしい。負けず嫌いなんだろ?」

この言葉で前向きになった濃野は、より右サイドで自分の能力を活かす術を考えるようになった。結果、「右サイドバックになったことで、より前へのスペースが生まれて自分のスピードやハードワークが活きるようになった」。機を見た攻撃参加に自分の長所を出せる手応えを得た。さらにここで、自分に秘めていた重要な能力を発見した。

まさかのオファー。ただ即答はせず

攻撃参加から守備に切り替わっても、頭の回転を維持したまま帰陣ができる。サイドバックのポジションに戻るだけではなく、ボランチの位置やインサイドハーフの位置に戻って、ボールを受け直してから、もう一度飛び出していくなど、頭脳的なアップダウンが強烈な武器となっていった。

「中央と違ってサイドのほうが全体を見渡せるし、前向きの状態で仕掛けられる。もともと運動量には自信があったので、昨年の後期くらいから自分のサイドバック像が確立されたことで、『ここならプロになれる』と確信を持てました」

そして、それが現実のものになった。J1の2クラブから熱烈なオファーが届いた。その1つが、Jリーグを代表する名門の鹿島だった。

「正直、アントラーズからオファーが来るとは思っていなかったので、最初に話を聞いた時は信じられなかった」

ただ、濃野は即答しなかった。ちょうどこの時、鹿島はJ1で開幕戦と第3節で勝利を収めた以降、勝ち星から遠ざかっていた。鹿島から声がかかったことで試合を映像で見るようになったが、そこには結果が出ずに低迷を続ける姿が映り、サポーターと鈴木優磨が意見をぶつけ合うシーンも見た。いわゆる、どん底の状態だった。

「実はこの時、声をかけていただいたもう1つのクラブのやっているサッカーに惹かれていました。ここなら自分のプレーを表現できるのではないかと、心が向いていたのは事実でした」

そう感じていた時、濃野は鹿島の施設見学に連れて行ってもらった。カシマスタジアムの中にあるアントラーズミュージアムでクラブの歴史の説明を受けると、これまで数多くの名手を鹿島に導いてきた椎本邦一スカウトにこう言われた。

「アントラーズは絶対に負け続けない。それはなぜか。我々には負けても立ち返る場所があるからこそ、どんな状況に陥っても立て直せる。ジーコから始まった勝者のメンタリティ、スピリットはみんな当たり前のように持ち続けている」

この言葉に心が震えた。鹿島には今やっているサッカーがどうこうではなく、クラブの奥底に染み込んだ、いつの時代も変わらない魂がある。脈々と受け継がれてきた常勝軍団としてのクラブの理念、考え方に、自分の負けず嫌いがマッチしているとすぐに感じた。

「僕がサッカー選手として一番大切にしてきたものが、ここにはある。この環境に身を置くことで、試合に出ている、出ていない関係なく、サッカー選手として大きく成長できるんじゃないかなと思えたんです」

プロフェッショナルの負けず嫌いに

https://www.soccerdigestweb.com/

Share Button