「サッカーの考え方をぶっ壊された」転機となった恩師との出会い、そして別れ。初めての挫折も「練習に行くのも嫌だった」【パリの灯は見えたか|vol.3 山本理仁】

ストリートサッカーで勝負を挑む日々

パリ五輪世代で期待のタレントをディープに掘り下げるインタビュー連載。第3回目は、ガンバ大阪山本理仁だ。

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山本は東京ヴェルディの育成組織で育ち、世代を牽引する存在として眩い光を放ってきた。クラブでは常に上のカテゴリーでプレーし、高校2年生でトップチームに引き上げられた。

背負う期待値は特大級。中学年代はエリートプログラムに名を連ね、中学3年生以降は世代別代表の常連として活躍してきた。

しかし、国際舞台には一度も出場していない。2017年のU-17ワールドカップは一学年下で縁がなく、主軸候補だった2021年のU-20ワールドカップはコロナ禍の影響で中止。タイミングが合わず、日の丸を背負って公式戦を戦う機会は得られなかった。

だからこそ、2024年のパリ五輪に懸ける想いは強い。昨夏にG大阪へ移籍したのも全ては来夏のため――。パリ五輪世代を牽引するプレーメーカーはどのような道を歩み、どんな未来を描いているのか。ルーツを紐解きながら、大舞台に懸ける想いを聞いた。

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左足から繰り出す正確なキック、ピッチを俯瞰できる視野の広さは、パリ五輪世代で屈指のレベル。創造性も豊かで、アイデアに富んだパスから多くのチャンスを作り出す。随所に“ヴェルディらしさ”が顔をのぞかせるプレーメーカーは、多くの人の期待を受けてきた。高い技術力はいかにして磨かれたのか。原点は幼少期の頃まで遡る。

2001年の12月12日 、山本家の第二子として姓を授かった。3歳上の姉がいたが、山本家にとっては待望の長兄。父から可愛がられ、幼い頃から近所の公園にボールを蹴りに行っていた。この父との時間がテクニックを磨く最高の時間。当時を振り返り、山本は言う。

「父親に連れられて行くと、その日、公園にいる一番上手い人に挑戦するんです。父に行って来いって言われるんですよ(笑)」

年上でも関係ない。幼稚園の頃からボールを蹴りに行き、ストリートサッカーで勝負を挑む日々が続いた。小学校の入学後も変わらない。最も衝撃を受けたのが、ペルー人の集団だった。

「ペルー人たちはめちゃくちゃ上手かった。行くと、簡易ゴールを置いて、毎回ミニゲームをやっているんですよ。そうしたら、父から『お前、そこに入ってこい』って言われる。でも、小学校低学年の頃って、いきなり知らない人の中に入って行くのが嫌じゃないですか。みんなめちゃくちゃ上手いし、もうどうしていいか分からないですよ」

南米仕込みのテクニックに翻弄されながら、必死に食らいついた。「今思えば、そういう経験が後々生きてきたのかな」と笑顔を見せた一方で、言葉も通じない状況で輪に入って行くのは、子どもにとっては難易度が高い。「怖かった」と話すが、年上のペルー人たちと一緒にボールを蹴った体験が技を磨くうえで原点になった。

中1でJFAエリートプログラムに

山本にとって、もう1つ大きかったのが、ヴェルディサッカースクールの相模原支部での体験だ。幼稚園の年長の頃から通い、必死にボールを追いかけていた。

どこか遠慮がちに「たぶん、一番上手かったのでスタッフに可愛がられた」と回想。「キープの練習で、デモンストレーションをする際に激しめに当たられるし、ミニゲームでも煽られて泣かされることもあった。終わったあとは悔しくて、半ばキレながら泣いて壁にボールを蹴っていましたね」。

厳しくされながらも、負けん気が強い山本はサッカーを辞めようとは一度も思わなかった。スクールでサッカーを学び、小学校4年生の時に大きな転機を迎える。Jの育成組織に加わる決断を下したのだ。受験したのは、長年お世話になっていた東京Vと川崎フロンターレ。後者は落ち、前者に合格した縁もあって“緑のユニホーム”に袖を通した。

「自分で意識した記憶はないけど、ヴェルディで身に付いたものか分からない。だけど、ヴェルディじゃなければ、今のプレースタイルにでき上がっていないです。フロンターレに入っていたら、また違う選手になっていたはずだし、ヴェルディのジュニアに入団したのは大きなターニングポイントになった」

技術を重視するヴェルディでサッカーに打ち込み、メキメキと頭角を現わしていく。ジュニアユースに移ると、中学1年生でJFAエリートプログラム(U-13の日本代表相当の選抜チーム)に名を連ね、中学2年生を迎える頃には、クラブでも中3の先輩たちに混じってプレー。翌年にはU-15日本代表に選出され、気がつけば同年代の選手たちを牽引する存在になっていた。

「自分の代に戻ると、やっぱり全然余裕が違った。プレースピードも上がって、頭の中で考えるスピードも格段に変わりましたよ」

そして、高校1年生となり、ジュニアユースからユースに上がると、人生を変える出会いがあった。クラブのレジェンドで、同年からユースの監督に就任した永井秀樹氏(現・ヴィッセル神戸スポーツダイレクター)だ。

前年に現役から退いた永井氏のもとで、徹底的に“サッカーのイロハ”を叩き込まれた。最初は何もかもが新しく、理解が追いつかずに苦しんだ。

「最初の頃、ワイドの選手はタッチラインを踏むぐらいずっと張っておけと言われ、自分の中ではあり得ないスタイルだった」。山本が今まで培ってきたサッカー感が通用せず、新たな価値観を養う作業は困難を極めたという。

「サッカーの考え方をぶっ壊された。ボールを持つことに対するこだわりは、今までにないもの。中3以前もボールを持てていたし、そういうスタイルに取り組んできた。でも、チームとしてもボールをどう支配するか。決まり事が多く、ゲームメイクするためのポジショニングを叩き込まれましたね」

プロ2年目で壁にぶつかる

苦しんだ一方で、永井氏との出会いで大きく変わっていく。「永井さんとの5年半でサッカーの引き出しが増えたし、すごく大切な出会いだった」。考え方が変わり、「すごく楽しかった。練習も含めて、考え方についていけたし、自分のプレーにあっていた。むしろ、自分が生きて行く道だと思えたんです」。

この言葉通り、サッカーがさらに楽しくなった。「どこにボールを置けば、どこに出てくるのか。パズルがはまって行く感じがあった」。プレーを言語化できる感覚は日を追うごとに研ぎ澄まされ、「相手を思うように動かせる喜びを知れた」。

1年次からユースで出場機会を掴むと、高校2年生でプロの世界へ。しかし、ここからが苦難の連続だった。プロ1年目は怖いもの知らずで伸び伸びプレーできたが、2年目を迎えると壁にぶつかる。本職のセントラルMFではなく、ゲームメイク能力を買われて、CBやSBでプレーする試合も多かったのだが、本来の良さをまるで出せない。

「フィジカルが弱すぎて、当時の写真を見ればあり得ないほど細かった。アンカーやダブルボランチのポジションで試合に出るので、守備の強度が求められる。フィジカルが弱く、あの時は本当に足りていなかった。五分五分の勝負に持っていけなかったので。

ユースだとできていたんですけどね。その状況を考えて、(トップチームの監督になった)永井さんがSBやCBで起用してくれたんですけど、見える景色も違えば、味方との距離感も違う。そこからハマって、自分の原点であるサッカーを楽しむことが失われて、めちゃくちゃ悩みましたね」

初めて味わった挫折――。何をやっても上手くいかなかった。

「楽しくなかったし、練習に行くのも嫌だった。今まで壁にあたった経験があまりなかったから、解決方法が見つからず、どういう思考に持っていけばいいかも分からない。試合が怖かった。今までこんなことなかった」

さらに状況を難しくさせたのが、同級生たちが一気に頭角を現わしたからだ。特に大きかったのが、藤田譲瑠チマ(現・横浜)の存在だ。2019年の秋に行なわれたU-17ワールドカップでブレイク。2種登録だった同年のリーグ終盤でデビューを飾り、昇格1年目の翌年からはボランチのレギュラーとして目覚ましい活躍を見せた。

同級生の中で常に先頭を走ってきた男にとって、初めて味わった“焦り”。自分がサブに回る試合も少なくなく、焦燥感に駆られた。そんな最中、21年9月に恩師が監督を辞任する。悔しさを噛み締め、恩返しができないまま別れを迎えた。

エリート街道を走ってきた山本にとって、プロに入ってからの2年半は苦難の連続。いかにして、失意のどん底から這い上がってきたのか。パリ五輪を目指す司令塔にとって再び大きな転機が訪れるが、今はまだ知る由もなかった。

※後編に続く。

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