堂安律「セレッソのオファーを1秒で蹴ってやる」小4での決心を実現も…挫折と号泣の“ガンバ中学生時代”「リツ、おっさんみたいやな」

カタールW杯で2ゴールを奪う活躍を見せた堂安律。豪胆さを感じさせる24歳だが、彼のパーソナリティは中学~高校時の若き日にどう形作られ、そしてヨーロッパ挑戦当初にどんな挫折を味わったのか? 書籍『俺しかいない』(集英社)より一部転載します(全3回の1回目/#2へ

“末っ子気質”がアスリートに向いていたのかも

〈あきらめが悪くて負けず嫌い。どんな相手の懐にも入っていける「末っ子気質」〉

サッカーを始めたのは3、4歳のころ。兄貴ふたりがサッカーをやっていた影響で、俺も物心がついたころからボールを蹴っていた。

3つ上の憂が俺のアイドルだった。まさに、マンガやアニメでよくある「目指せ、兄貴」というあの感じ。小さいころは毎日、近所の公園で一緒にサッカーをして、泣くまでボコボコにされた。兄貴にはどうやっても勝てなかったけど、俺は根っからの負けず嫌いだから、何度も何度もこりずに勝負を挑んだ。

「まだまだ!」「もう1回!」が俺の口グセだった。3兄弟の末っ子であることが、俺のパーソナリティーを形成する大きな要素になっている。末っ子はいい意味で、あきらめが悪い。スポーツの世界はどれだけ壁にぶち当たっても、しつこく生命力のある人間が生き残る。性格的にアスリートに向いていたのかもしれない。

俺はオトンやオカンに「よう、しゃべる子やな」と言われて育ってきた。実際、堂安家の3兄弟のなかで、末っ子の俺が群を抜いておしゃべりだったのは間違いない。兄貴たちは知らない人が来るとおとなしくなったけど、俺は普通にしゃべっていたらしい。

兄貴たちの失敗を見て、「こうしたらオトンやオカンに怒られるんやな」「こうすればホメられそうやな」ということを無意識に覚えたんだと思う。どんな相手の懐にも入っていけるコミュニケーション能力や空気を読む能力は、間違いなく末っ子気質のおかげ。この性格が自分を本当に助けてくれている。

オトンとオカンの影響ももちろん大きい。俺は小さいころから一度もサッカーの練習を休んだことがない。オトンとオカンは、サッカーが終われば、多少遊んで帰ってきてもなにも言わずに許してくれた。だから、練習をサボる必要がなかった。そんな両親のもとで育てられたことが今の俺につながっていると思う。

小4での挫折と「正直ものすごくムカついた」

〈人生初の挫折。「セレッソのオファーを1秒で断ってやる」〉

人生で初めての挫折は、小4でセレッソ大阪アカデミーのセレクションに落ちたこと。地元の浦風FCでは、俺がいちばんうまいと思ってサッカーをやってきたけど、セレッソのセレクションに行ったら、俺よりもうまいヤツばかりいた。通常は3次選考までなのに、俺が参加したのは4次選考。15人、16人が参加して2人、3人が合格する最終試験だった。

そのなかでもひとりだけずば抜けてうまいヤツがいると思ったら、のちにU-20W杯に一緒に出ることになる舩木翔くんだった。

あとで聞いたら、翔くんはすでにセレッソ入りが決まっていて、1学年上のチームに上げるテストをされていたらしい。俺とはまったく境遇が違っていた。結局、セレッソに落ちた俺は兵庫県でまあまあ強かった西宮SS(サッカースクール)に入った。

悔しかったのは、俺と入れ替わるように西宮SSから3人の選手がセレッソアカデミーに合格したこと。正直ものすごくムカついた。「いつか絶対に見返してやろう」と思ったし、「中学に上がるタイミングで、セレッソのジュニアユースからオファーをもらったら、1秒で断ってやる」ということを目標に、さらに反骨心を燃やしてサッカーにのめり込こむようになった。

小学生の堂安が“本当に天才”と思った選手とは

西宮SSに初めて参加したのは大会の日だった。まだユニフォームもなく、似たようなシャツを着て出たけど、俺はボッコボコにゴールを決めまくって得点王になった。当時は週1でヴィッセル神戸のスクールにも通っていて、そこで一緒だった西田一翔も西宮SSに誘った。

一翔は本当に天才で、「こいつには敵わない」と俺が最初に思った選手だ。その後、ガンバ大阪ジュニアユース、ガンバ大阪ユースとずっと一緒で長い付き合いになったけど、お互いに認め合い、刺激し合える関係だった。これまで多くの指導者との出会いがあったけど、いちばん最初に影響を受けたのは、やっぱり西宮SSの早野陽コーチだ。「俺がマラドーナになりたい」とアホみたいな夢を語っても、「律ならなれるよ。そのためにどうすればいいんやろ?」と、子供の戯言だと思わず、しっかり向き合ってくれた。

子供とのコミュニケーションの取り方が抜群にうまかった。本当にのびのびとサッカーをやらせてもらったし、めちゃくちゃ練習した。「パス禁止」の試合もあって、とにかくドリブルを極めた。その甲斐もあってか、小6のとき、関西地区のナショナルトレセンでは、完全に俺がチームのキングになっていた。

そして、中学進学時、セレッソのジュニアユースからオファーをもらった。もちろん、1秒で断った。「セレッソのヤツらには絶対に負けてたまるか」という反骨心が小学生の俺を強くしてくれたし、この経験はその後のサッカー人生にも大きな影響を与えてくれた。

オトンとオカンが「りっちゃん、よかったね」と涙した日

〈ガンバ大阪ジュニアユースで出会った天才たち。周りが自分よりもうまくて、満足しているヒマなんてなかった〉

2017年の夏にFCフローニンゲンへ移籍するまで、俺はジュニアユース時代から約6年間、ガンバ大阪でプレーした。小6のころ、実はヴィッセル神戸、セレッソ大阪、名古屋グランパス、JFAアカデミー福島からも声をかけてもらっていた。セレッソはもちろん眼中になく、最後はガンバとグランパスで迷っていた。

これはオカンから聞いた話だけど、ガンバの練習を見学に行った翌日、「ガンバのユニフォームを着ている夢を見た」と俺が言って、ガンバに決めたらしい。でも、俺にはそんな記憶はまったくない。だから、本当にノリで決めたんだと思う。

ガンバのジュニアユースは関西のエリートの集まりで、特に俺の代は過去最強と言われるほどだった。一翔のほかにも、ディアブロッサ高田から来た杉山天真くんというすごいMFがいたし、EXE90FCから来た松本歩夢くんというすごいFWもいた。

チームはめちゃくちゃ強くて、ヴィッセル相手に7点、8点とって勝ったこともあった。初めての試合に運よく先発で出られたけど、オトンとオカンはまさか俺が出るとは思っていなかったらしく、「りっちゃん、よかったね。今のうちに見とこう」と泣いていた。

いちばん下からはい上がらないといけなかったから…

それこそ、アカデミーの6つ上には宇佐美貴史くん、2つ上には井手口陽介くんという大きな存在がいて、1つ上には初瀬亮くん、市丸瑞希くん、高木彰人くんというジュニアユースで3冠を達成し、「マンチェスターユナイテッド・プレミアカップ」というU-15世代の世界一を決める国際大会で2位になったときの中心メンバーがいた。同期や上の世代はもちろん、ガンバでは下からの突き上げもある。

そんななか俺は夢中でボールを蹴っていただけ。そして、常に「チームのナンバーワンになりたい」と考えていたし、1つ上や2つ上のチームに入っても、その考えを貫いていた。周りに自分よりもうまい選手がいたことで、調子に乗ることなく、サッカーだけに集中できた。もし自分より上のレベルの選手が誰もいなかったら、きっとどこかで満足していたかもしれない。ガンバでは中1から中2、ジュニアユースからユース、ユースからトップとカテゴリーが上がるたびに、いちばん下からはい上がらないといけなかったから、満足しているヒマなんてなかった。

「おっさんみたいやな。昔の10番みたいな…」

〈壁を乗り越えて確立した、堂安律の原型。「おまえは天才とちゃうぞ。満足すんな」〉

ジュニアユースでは、最初はボランチでプレーしていたけど、今以上に足が遅く、中1の夏ごろにはスピードでドリブル突破できなくなり、早くも壁にぶつかった。ただ、体の強さや判断の速さには自信を持っていた。中盤でテクニックを見せつけるけど、運動量は少なく、パスを出したあとに走らない。ボールを奪われても取り返しに行かず、人のせいにしていた。

ジュニアユース時代に指導してもらっていたカモさん(鴨川幸司)から、「おっさんみたいやな。昔の10番みたいなプレースタイルになるぞ」と言われた。

「おまえは天才とちゃうぞ。満足すんな」「貴史や陽介は中1のころから中3の試合で活躍してたんやぞ」という言葉は、当時、俺の心に深く刺ささった。

「どうしよう。このままじゃダメだ」と思い悩んでいたとき、「おまえはドリブラーやから」とカモさんが俺をサイドハーフにコンバートした。そこから、ドリブルを極めようという意識が強くなり、中1の秋には、中3が中心のトップチームに上がるようになった。

中1の冬、人生で初めて号泣した経緯とは

ところが、中1の冬、高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会で、人生初の骨折をした。手応えをつかみかけた時期の思わぬ事態に、俺は思わず病院で号泣した。あんなに泣いたのは人生で初めてだった。

オカンも心配して、「どうやって声をかけたらいいかわからない」とトレーナーに相談していたらしい。その後も、カモさんは我慢して俺を使い続けてくれた。中3のころ、ほかにやる選手がいなかったから俺はFWになった。このときに感じたシュートや裏抜けの大切さは、プロになってからプレースタイルを確立するうえで、ものすごく大きな意味を持っていた。

カモさんにはよく怒られたけど、しっかりと考えて意見を言えば、それを聞き入れてくれる指導者だった。スペイン遠征でチームメイトがボールをなくし、連帯責任で全員が罰走することになったとき、俺は納得がいかず、「カモさん、この大会にいいコンディションで臨まないと俺らは絶対に後悔する。帰ってから、その倍は走るから許してください」と思いを伝えた。カモさんは「おお、考えるわ」と素っ気なかったけど、認めてくれた。

そのスペイン遠征で俺はバルセロナ相手に決勝ゴールを決めるなど、結果を出した。結局、帰国してからも罰走はなかった。カモさんはきっと、俺たちが自分たちで考えて判断したことを評価してくれたんだと思う。

<#2につづく>

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