Jリーガーから弁護士へ“華麗なる転身”も…「やっぱりサッカーで成功したかった」J開幕バブルを知る男の30年後の本音〈同期は天才・礒貝〉
さかのぼること30年前。Jリーグ黎明期にピッチに立った男は今、法曹界に身を置いている。
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大阪府の摂津総合法律事務所で働く、八十祐治・53歳。1993年のJリーグ開幕時、ガンバ大阪に所属した八十は、旧司法試験を突破し、現在は弁護士として多忙な日々を過ごす。
「司法試験の勉強の苦しさと、プロとして試合に絡めないもどかしさ。どちらが苦しかったかといえば、間違いなく試合に出られなかったことですね。あの経験がなければ、たぶん途中で投げ出してしまっていたという気もしています」
選手としては決して大成したわけではない。2年間を過ごしたガンバ大阪では、リーグ戦出場は3試合に留まった。その後はJリーグ加盟前のヴィッセル神戸、北信越リーグ時代のアルビレックス新潟(加入時はアルビレオ新潟)、JFLの横河電機と渡り歩き、31歳で現役を引退。法律の知識も全くない状態から、猛勉強を開始し、36歳で司法試験を突破している。
字面だけを追うと数行で完結する。だが、アスリートのセカンドキャリアという視点で考えると、その“濃度”を見過ごすことはできない。
2022年のJ1~J3のカテゴリーの登録選手数は1759人。これまでの30年の歴史の中で、単純計算でも2万人を有に超えるJリーガーはいたが、弁護士資格を持つのは八十だけだ。セカンドキャリアに苦しむ元サッカー選手が多くを占めるなか、八十の異色ともいえる経歴に関心を持ったーー。
同級生は商社や銀行に就職「Jリーグって何だ?」
八十は大阪の進学校・茨木高校から1年の浪人を経て、神戸大学・経営学部に進学した。大学2年時にプロ化の動きはあったが、自身とは無縁なものだと感じていた。転機は現デンソーカップでの活躍を見初められ、ガンバから練習参加の打診が届いたことだった。
「大学4年生になって、周囲はみんな有名商社や銀行、役所などに就職が決まっていく。ゼミの先生にも『八十君、君の進路はどうするんだ』と聞かれても、とてもじゃないけど『Jリーガーになります』とは言える空気じゃなかった。それで秋口に正式にオファーが届いて報告にいっても、『Jリーグって何だ? 』という(笑)。まだそういう時代だったんです」
なお、八十の同期には浦和レッズで活躍し、現在はテクニカルダイレクターを務める西野努(52歳)がいる。Jリーグの歴史の中で、神戸大学出身のJリーガーは八十と西野の2人だけだ。
時はJリーグバブルの前夜。その大きな波の中に、八十もいた。当時の指揮官はレジェンド・釜本邦茂で、チームメイトには本並健治、和田昌裕、久高友雄、永島昭浩ら錚々たる名前が並ぶ。同期入団には天才・礒貝洋光や選手権でヒーローになった松波正信らがいた。
わずか数カ月で当事者たちですら困惑するほど、環境は様変わりしていった。多くは異常なまでの過熱ぶりに戸惑いつつも、変化を受け入れていく。だが八十だけは、どこか平常心だった面がある。
「Jリーグ開幕前は、練習場にせいぜい数人ファンの方がいるくらい。ただそれが開幕以降は日に日に増え、何百人とかの出待ちの列が出来ていくようになりプレゼントやサインの嵐。チームメイトもブランド物に身を包み、車も外車や国産の高級車ばかり。とにかくピッチ内外でもみんな“華”があり、それでいてやんちゃ。そんな中で私だけ、車が日産の『ブルーバード』だったんです。ついたあだ名は『ブルーバード』(笑)。でもチームで私が一番下手でしたから、とにかくサッカー以外のことに目を向ける余裕がなかったんです」
志半ばで引退…会社に残る選択もあったが
入団後、すぐにプロの壁にもぶつかった。ベンチ入りを果たすもなかなか試合には絡めず、焦りも生まれた。だが、焦れば焦るほど負のスパイラルに陥っていく。ルーキーイヤーはリーグ3試合に出場したが、2年目は猛アピールも実らずベンチ入り止まり。試合出場がないままガンバから放出された。
その後は神戸に活躍の場所を求めたが、リーグ開幕直前に左足首の靭帯を切る全治4カ月の大怪我を負うなど、思うような結果は残せなかった。
たどり着いたJFLの横河電機では総務部で会社員をしながら、必死にサッカーにしがみついた。だが、チームの若返り、子供が生まれたという事情もあり、次第に別の道を考えるようになった。会社に残るという選択肢もあった中で、八十が選んだのはあえて弁護士を志すということだった。
「大学の同期は社会人として一流企業でバリバリ働いていて、ガンバの同期は華やかな舞台で活躍している。私は会社員として、朝から17時過ぎまで働き夜は18時~21時まで練習。仕事も雑用ばかりで、周りからは『君はサッカーしかしていないから大した仕事は出来ないでしょ』と言われ、すごい悔しい思いもした。土日は遠征があるし、子供もいたのでキツかったですよ。
ただね、私はサッカーが好きすぎて辞められなかったんですよ。いざサッカーを辞めるとなった時、今後の人生のモチベーションを失ってしまった。30年間、今と同じ仕事は出来ないとも感じていたんです。それでサッカーと同じくらいの熱量で出来る仕事を考えた時、見返してやろうという思いもあり、司法試験を受けることにしたんです。当時はどれだけ難しいかもよく知らずに……」
31歳でスパイクを脱ぐと、そこからはひたすら机に向かう日々だった。最初の2年は働きながら対策をしていたが、退路を断つ。仕事も辞め、一日12時間以上の勉強を自身に課した。当初は知的好奇心をくすぐられたが、次第に机から動けない苦痛が勝っていく。妻や家族の支えに頼り、社会から隔離されているような感覚もそれに拍車をかけた。
「とにかく合格するしかないというプレッシャーの中で、ちょっと頭がおかしくなりそうなほど勉強していました。そんな生活が4年半続いた。でも、サッカーはどれだけやっても答えが見つからなかったなか、司法試験はやればやるだけ点数は上がっていった。サッカーで試合に出られない、苦労したという経験がなければ弁護士にはなれなかったとも思います。ただね、たぶんもう二度とあんな生活は出来ないでしょう」
こうして2005年11月9日、八十は4度目の挑戦で旧司法試験を突破した。以降、民事訴訟を中心にずっと休みなく走り続ける感覚だという。
念願だった弁護士バッジを身に着けた感想を聞くと、「人と人の紛争に関わることはなかなかツラい仕事です。本質的には自分には向いてないかなと思う時もありますよ」と複雑な心情を明かす。それでも、係争だけではなく兵庫県サッカー協会や日本サッカー協会の委員として、時には選手の代理人業(現・エージェント)にも関わってきた。
スポーツと法曹界にはまだ壁がある、と感じている八十は自身の経歴を活かし、暴力やハラスメント問題にも積極的に関わってきた。弁護士として活動する今も、スポーツ界への熱い想いを持ち続けている。
弁護士を目指す現役選手も出現「素晴らしいこと」
八十がピッチを離れて20年以上が経ち、アスリートを取り巻く環境や意識も少しずつ変わりつつあることも感じている。明治大学出身で、横浜FCに所属する林幸多郎(22歳)のように、Jリーガーとしてプレーしながら司法試験の合格を目指す若者も出てきた。
「僕らの頃と比べトレーニングの方法や手法が確立され、練習時間が減り、時間に余裕が出来るようになってきた。大学生と話していても、2つ、3つ目標をもってサッカーに向き合うような選手も珍しくない。これは素晴らしいこと。だから林くんも頑張って欲しいと思うし、そういう選手が出てきて本当に嬉しい。彼は非常に高いレベルでサッカーをしているし、僕と同じではなく、早く試験を突破して、その上で出来るだけ長くサッカー選手も続けて欲しいです」
Jリーグ草創期にプレーした多くの選手は50代となり、サッカーから離れた人生を歩むものも少なくない。むしろ大半がそうだろう。八十がその才能に憧れ、時には嫉妬した礒貝も、引退後はゴルファーや大工、焼き鳥、日雇い労働などを転々として、ホームレスになっていた時期もあるという。そのことを八十に問うと、懐かしそうな表情を浮かべる。
「礒貝さんは僕らの年代の超スーパースター。同級生だけど、憧れしかなかった。誰も真似できないプレーを平気でやってのけ、第二の人生も普通の人には出来ないことを笑顔でやっていて、本当に彼らしい。その感受性で人生を楽しんでいてるな、と」
現在はガンバ大阪のOB会にも所属する。年に一度のOB会は、八十にとって“あの頃”を思い出す貴重な時間となっている。往年の名選手たちと顔を合わせても、弁護士という肩書きを羨ましがられることもある。今ではユニフォームよりも、スーツにネクタイ姿がすっかり板につくようにもなった。だが、八十は今でも時々こんなことを考える。
「もし、もう一度選べるなら、やっぱりサッカー選手として成功したかった。それは間違いなく。OB会でいろんな方にお会いしても、今でも恐縮してしまう。僕の中ではみんなスターですから。思う存分にサッカー選手を全う出来た方は羨ましいな、と心から思うんですよ」