「トライアウトの選手を誘ったのに引退」Jで最も負けている強化担当が、徳島ヴォルティス改革に踏み切るまで…今も心に刻む“専門誌の酷評”
Jリーグ各クラブはそれぞれ“いかに強くなるか”という命題を突き付けられている。徳島ヴォルティスはスペイン人指導者やレアル・ソシエダとの業務提携など様々なトライをしているが、地方クラブにあってどんな“独自色”を見出そうとしているのか。岡田明彦強化本部長に幅広く聞いた(全2回の1回目/#2も)
【写真】ヤンチャそうなジーニアス柿谷17歳や「年間わずか3勝で降格」当時の専門誌の酷評…徳島が強くなるまでのプロセスなどを一気に見る(30枚超)
2017年から3人続けてスペイン人監督を招聘し、ポジショナルプレーの概念に基づいて攻守にわたってゲームを支配するアタッキングフットボールを志向している。
その間、何人もの選手を――選手だけでなく2人の指揮官も――J1に送り出し、20年にはクラブ史上2度目となるJ1昇格を果たした。
さらに22年12月には、久保建英が所属する“ラ・レアル”ことレアル・ソシエダと育成業務提携を結ぶなど、今や徳島ヴォルティスは確固たるスタイルや理念を持つチームとして知られている。
トライアウトでオファーした選手が引退を選ぶんです
そんな地方クラブの星も、ほんの10年ちょっと前は選手の獲得にも苦労していた。
「トライアウトに出ていた選手を誘うじゃないですか。そうしたら、うちのオファーを断って、引退を選ぶんです。あれ? って。お金の問題もあったかもしれないですけど、それだけ魅力がなかったんでしょうね」
そう苦笑するのは、徳島の強化本部長を務め、クラブの国際化を推し進めてきた岡田明彦である。J2に昇格した05年に強化担当となり、15年から強化部長、19年から現職と、長らくクラブの強化に携わってきた。
そんな岡田は自身のことを、こう自虐する。
Jリーグで最も負けている強化担当――。
「決して大袈裟ではなく、本当にそうだと思いますよ。06年から3年連続でJ2最下位になったし、最初にJ1に昇格した14年は年間3勝でしたから。ほとんど負けているという感覚です。よくクビにならず、続けさせてもらっているなと(苦笑)」
難しくても、選手の能力を上げていかないと
負け続けてきた歴史のいったいどこに、国際化へと舵を切るきっかけがあったのか――。
「そうですね……振り返れば、12年のシーズン後ですかね」
その前年である11年は、クラブがプロ化した05年以降、最もJ1に近づいたシーズンだった。
期限付き移籍でセレッソ大阪から加入して3年目となる当時21歳の柿谷曜一朗の活躍もあり、シーズン序盤から上位争いを続けた徳島は、昇格圏内の3位でラスト2試合を迎えた。
「いよいよ昇格できるんじゃないかと思ったんですけど、ホーム最終戦にたくさんの人が集まって、選手たちが硬くなって負けてしまって。最終節でも敗れて、上がれなかった。来年こそは、と思った12年は昇格どころか15位に沈んでしまった。それで、このままでいいのかと。自分たちはどうあるべきかを分析し、どうしていくかを考えました」
どうあるべきか、どうしていくか――。その答えのひとつが、ボール保持力の向上だった。
過去の傾向を見ても、ボール非保持を強みにするチームはJ2を勝ち抜けてもJ1では通用せず、すぐに降格することが多かった。
「なぜ非保持のサッカーになるのかというと、技術のしっかりした選手をたくさん獲得できないというクラブ規模の問題も大きい。でも、難しくても、所属選手の能力を上げていくことにチャレンジしていかないと」
成果はさっそく生まれた。翌13年、就任2年目となる小林伸二監督のもと、チームは発展途上ではあったもののJ2で4位となり、昇格プレーオフを制してJ1昇格を成し遂げる。
しかし、現実は厳しかった。J1での戦績は3勝5分26敗に終わり、ホームでは1度も勝てなかった。
今でも保管している“J2降格時の酷評”
J2降格が決まった直後に発売されたサッカー専門誌で、徳島はこんなふうに酷評された。
ヴォルティスならではのカラーがまるで感じられなかった――。
その雑誌を、岡田は今も保管している。 「悔しいというより、そうだよなって。ちょうど僕が強化部長になるタイミングで出た記事で、強化部長を何年やるか分からないけど、取っておこうと。13年は柴崎晃誠とかがいて、中盤のパス成功率は高かったんですけど、戦い方としてはまだまだだったから、14年のJ1ではまったく通用しなかった。上がることはできても、これでは絶対に残れないなって痛感して。
J1へ行ったら、すべてが変わるんだろうな、みんなが幸せになれるんだろうな――そう思っていたんですよ。でも、そんなことはなかった。人もサーッと引いていくんですよ。予算は増えたんですけど、選手はそんなに来てくれない。そこでまた考えました。これをしたら勝てるという魔法のやり方なんてないじゃないですか。だから、このクラブはどういうスタイルを推し進めていくべきなのか、どうしたら、みんながハッピーになれるのかって」
リカルド・ロドリゲス招聘を決断した理由
強化部長となった岡田が大きな決断を下すのは、16年シーズン終了後のことだ。クラブ史上初となる外国人監督を招くのである。
「16年は最終的に9位でしたが、尻上がりに調子を上げて後半戦だけだと4位だったんです。だから、継続するという選択肢もあったし、若い選手たちも少しずつ増えて、良くなってきたという手応えもあった。ただ、課題も感じていて。技術を高めて少しずつボール保持力も高まっていたんですけど、どこか攻守が別々のような感じがして。日本の場合、攻撃は攻撃、守備は守備と分けてトレーニングすることがあるじゃないですか。攻撃のことを考えて守備をして、守備のことを考えて攻撃をしないと、リアリティのないことが多くなってしまう。そこをどう変えていくか」
そこで岡田が白羽の矢を立てたのが、スペイン人指導者で、U-17サウジアラビア代表、スペインのジローナ、タイのラチャブリー、バンコク・グラス、スパンブリーの監督を歴任していたリカルド・ロドリゲスだった。
岡田は15年に、リカルド・ロドリゲス監督が指揮を執っていたバンコク・グラスの試合を見たことがあった。だが、16年シーズン終了時点ではあくまでも複数いた後任候補のひとりにすぎず、外国人監督に決めていたわけでも、スペイン人にこだわっていたわけでもなかった。
「リカにやりたいサッカーをプレゼンしてもらったり、徳島の試合を見たうえで選手のレポートを出してもらったんですよね。そうしたら僕が感じていた課題だったり、選手に対する見方だったりと一致していた。リカはポジショナルなサッカーをしたいと言っていて、選手をどう良くしていくかという部分でも発想が似ていた。あと、同世代なので、単純にこれまで見てきたサッカーの話も合った。だから、最後はフィーリングです(笑)」
徳島というクラブに魅力を作らないと
タイのリーグ戦もチェックしていたように、15年に強化部長に就任してから、岡田の視線は海外に向けられるようになっていた。
「フットボールって、国内で完結するものではない。世界があって、その一部。日本の常識が世界の常識とは限らないわけですから、外に出ていかないとダメだと思って。世界と繋がったなかで判断、決断していかないといけない。だから、ドルトムント(ドイツ)やアヤックス(オランダ)にも行ったし、ベルギーだったら、アンデルレヒトやヘンクにも行きました。外から学ばないといけない。60あるJクラブの中から、もっと言えば、世界の何千ものクラブの中から、サルやタヌキ、イノシシの出るような山の中のクラブを選んでもらうには、徳島に行けば成長できるとか、魅力を作っていかなければいけない」
リカルド・ロドリゲス監督は就任4年目となった20年、クラブ史上2度目のJ1昇格を置き土産に浦和レッズの指揮官へと転身したが、後任で同じくスペイン人のダニエル・ポヤトス監督とも岡田は以前から交流があり、すでに18年にスペインで顔を合わせていた。
ソシエダ分析チームの責任者を新監督に
22年シーズン終了後、契約延長のオファーを出していたポヤトスがガンバ大阪の監督就任を決めると、今季の指揮官として、育成業務提携を結んだレアル・ソシエダの分析チームの責任者だったベニャート・ラバイン監督を迎え入れた。
「スポーツダイレクターの(ロベルト・)オラべさんの評価がすごく高かったんです。持っている知識が豊富で、優秀で、真面目だと。本人とも話をしたら、監督をやりたい、日本に興味がある、ということでした。ベニだけに絞っていたわけではなく、何人かの候補の中から最終的にベニを選びました。チームにダイナミックさをもたらしてくれることを期待しています」
一般的にはリカルド・ロドリゲス監督を招聘した17年が徳島にとっての改革元年だと認知されているかもしれない。しかし、11年、12年があっての昇降格であり、その経験があっての17年であり、20年の2度目の昇格へと繋がっていたのだ。
さらなる改革は続く。徳島のスタイルを築くことに成功した岡田は、レアル・ソシエダとの育成業務提携を機に、選手・指導者の育成、クラブ運営にもメスを入れようとしている。