【水本裕貴コラム】北京五輪代表入りの危機 京都へ決意の移籍
【マンマーク サムライDF水本裕貴の奇跡(6)】2007年にU―22日本代表として臨んだ北京五輪アジア予選を突破し、本大会の出場権を確保すると、シーズンオフには複数のJクラブからオファーが届きました。僕は「さらに成長したい」との思いから西野朗監督率いる強豪のG大阪入りを決意します。
08年に入って新天地で再始動する前の1月、五輪予選が終わったことで再びA代表に招集されました。07年に日本代表監督のイビチャ・オシムさんが脳梗塞で退任し、岡田武史さんが新指揮官に就任して最初の合宿。充実したトレーニングでしたが、代表に招集されたため、G大阪のキャンプにフルで参加できず、戦術理解や連係面などで少し不安もありましたね。
シーズンが開幕すると、悪い予感が的中。ほとんど出場機会を得られませんでした。先発で出られないことに焦りを感じ、西野監督に「何が足りないのか」などと聞きにいったほど。DFラインは安定すると、なかなかメンバー変更することは少ないですし、西野監督もレギュラー組を信頼しているようで、すぐにチャンスは得られないことを確認しました。
夏には大目標としていた北京五輪の本番が控えており、最終メンバー入りの大ピンチ。大会登録はわずか18人で、GKを除けば16人しか選ばれない。選ばれたとしても試合に出ていなければ、本大会のパフォーマンスにも影響が及びます。自暴自棄になりそうな時期もありましたが、悩みに悩んだ末、自分の道を切り開くために移籍を決意。幸いにも京都が獲得に乗り出してくれて、わずか6か月でG大阪を退団することになりました。
京都は元日本代表DFの加藤久さんが監督、同DFの秋田豊さんがコーチ、02年W杯メンバーのDF森岡隆三さんが選手で在籍しており、タイプの違う3人から多くのことを学べましたね。加入後は3人の指導もあってスタメンで試合に出場し、チームにも貢献できたと思います。コンスタントにプレー機会を得られたことで反町康治監督から北京五輪メンバーにも指名されました。
最後までドキドキでしたが、無事に選ばれたことでホッとしました。しっかりとしたプレーが求められている中、同時にキャプテンにも指名されていたので、本田圭佑や長友佑都(現FC東京)、香川真司(現C大阪)のいるチームをまとめるという仕事にも取り組まなければなりません。