北川信行の蹴球ノート ワールドカップは「アラブの夢」で終わるのか…UAE専門誌の「轍」
サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会が20日、開幕した。残念ながら、現地には行けていない。なので、もっぱらテレビ画面を通しての感想である。米俳優のモーガン・フリーマンさんや、韓国の人気グループ、BTSのジョングクさんらが登場した開会式からは、開催国カタールが国の威信をかけて大会に臨んでいることがひしひしと伝わってきた。
W杯の開会式は五輪と比べると簡素なことが多い。1930年から続くW杯の歴史で、かつてこれほど華やかな開会式があっただろうかと思いながら、鮮明に思い出した光景がある。
■首長家出資の専門誌が示すサッカー人気
2009年1月のこと。アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビで開かれたアジア・アフリカ年間最優秀選手賞の表彰式に招待された。日本人記者は知る限り、私と中東のサッカーに詳しいフリーランスの2人だけ。ドバイの「ブルジュ・アル・アラブ」に対抗して造られたとされる7つ星ホテルの「エミレーツ・パレス」が式典の会場で、アジアサッカー連盟(AFC)の会長だったモハメド・ビン・ハマム氏や、直近のW杯ドイツ大会で優勝したイタリア代表のジェンナーロ・ガットゥーゾ(当時ACミラン)らのほか、政財界からも多くのゲストが出席していた。日本の駐UAE特命全権大使にもお会いした。
式典では、今回のW杯の開会式と同じように、アラブ社会の伝統に西洋風のアレンジを加えたような華やかなセレモニーが次々と繰り広げられた。当時、世界的な人気を博していたフリースタイル・サッカーのデモンストレーションなどもあった。
そもそも、アブダビでアジア・アフリカ年間最優秀選手賞の表彰式が開かれたのは、アブダビを拠点にした、中東で最多の発行部数を誇るサッカー専門誌が「アジア・アフリカ版バロンドール」を立ち上げたから。この専門誌はアブダビ首長家の関係者が出資。フランスのサッカー専門誌「フランス・フットボール」が創設し、世界的に有名な「バロンドール」(創設当初は欧州年間最優秀選手賞だったが、現在は世界年間最優秀選手賞)にならい、追いつこうとしていた。豪華さは、アラブ社会でのサッカー人気の高さとともに、UAE内の他の首長国や近隣の湾岸諸国への対抗意識ものぞいていた。振り返れば、ゲストとして招かれたカタール人のハマムAFC会長は終始冷ややかな様子で式典を眺めていたように思う(突撃取材でコメントを取ろうとしたが、うまくいかなかった…)。
■航空券、宿泊代もセットで招待
「アジア・アフリカ版バロンドール」の選考では、イタリア人元審判のピエルルイジ・コッリーナ氏や、元日本代表の中田英寿氏らが審査員を務めた。前年の2008年はガンバ大阪がアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を制したシーズンで、遠藤保仁(現ジュビロ磐田)も候補にノミネートされていた。
私が表彰式に招待されたのも、ガンバ大阪と関係がある。12月にアジア王者の資格でガンバ大阪も出場し、欧州王者のマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)と壮絶な打ち合いを演じたクラブW杯が日本で開催された。大会期間中に東京都内のホテルで開かれた組織委員会の会合を取材し、関係者のコメントを取るために会議室の外で待っていると、UAEのテレビ局の人間に突然声をかけられた。
「アジア・アフリカ版バロンドールをつくったので投票してほしい」とのことだったので、気軽に引き受けると、「翌月にアブダビで表彰式がある。往復の航空券代と宿泊費を出すので、それも取材してほしい」と頼まれた。半信半疑で了承すると、数日後に本当に航空券が送られてきたのだった。
関西空港発ドーハ経由アブダビ行きのカタール航空便でアブダビの空港に到着すると、VIP待遇でエミレーツ・パレスとは別の高級ホテルにエスコートされた。ホテル内の飲食もすべて無料。香港を拠点に活動している著名なサッカーライターをはじめ、多くの国のメディアが集められており、フランスの有名スポーツ紙「レキップ」の記者はプールサイドでくつろいでいた。
■思いもしなかった突然の廃刊
アジア年間最優秀選手に選ばれたのはマンチェスター・ユナイテッドでプレーしていた韓国代表の朴智星だった。アフリカの最優秀選手にはアーセナル(イングランド)のエマニュエル・アデバヨル(トーゴ)が選ばれた。
だが、この「アジア・アフリカ版バロンドール」にはオチがある。翌年も〝おいしい招待〟を期待していたが、まったく音沙汰なし。聞くと、2回目が開かれなかっただけではなく、専門誌自体が数カ月後に廃刊になっていた。「首長家の気まぐれだったのではないか…」。式典に参加したフリーランスの日本人記者とそんな感想を話し合ったこともる。
実は、W杯カタール大会にも、同じような危うさを感じている。テレビ画面を通じ、開会式の格別な華やかさを見て、その思いは強くなった。
一方で、こんなことも思った。開会式の出演者に米国の俳優と韓国の人気グループの歌手が選ばれたのはなぜだろう。そこにはカタールのしたたかな政略や、人権問題などへの反発を強める欧州との距離感が隠れてはいないだろうか。カタールは湾岸諸国の中でも際立った外交感覚を持っているとされるからだ。
蛇足だが、カタールサッカー界の有力者だったハマムAFC会長はその後、W杯の母国への招致やFIFA会長選をめぐる買収疑惑によりサッカーに関わる活動の永久資格停止処分を受けている。
ともあれ、今回のW杯はわずか1カ月限りの「アラブの夢」で終わりはしないだろうか。UAEの専門誌と同じ轍(てつ)は踏まないか。W杯そのものがもたらす熱狂と興奮が過ぎ去った後に、カタール社会に残るものは何なのか。「W杯取材切符」を手に入れた記者は目をこらしてみてほしい。



