「僕は自分を売り込みに来たんだ」25歳の永島昭浩は欧州王者のPSVに加入するはずだった? カズと並ぶ“次世代スター候補”だった頃
Jリーグの前身であるJSL時代からストライカーとしてゴールを量産し、その後もガンバ大阪、ヴィッセル神戸と行く先々でチームの顔となった永島昭浩(58歳)。当時を知る古参のサッカーファンからすれば、スポーツキャスターとしてニュースを読む姿なんて想像できなかったに違いない。メディアで囁かれた釜本邦茂との確執の真相、故郷を襲った大震災、そしてアナウンサーとして活躍する娘への思いまでたっぷりとサッカー人生を振り返った。全3回の1回目(#2、#3へつづく)
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堂安律が日本人として初めてPSVアイントホーフェンの一員となる30年以上前――。
赤と白のストライプのユニホームを身にまとう日本人選手が誕生する、可能性があった。
兵庫の御影工業高を卒業後、関西リーグだった松下電器産業サッカー部(のちのガンバ大阪)に入部した永島昭浩は、6シーズン目をJSL(日本サッカーリーグ)1部で戦い終えた1989年夏、海を渡った。
PSVの練習に参加するためである。 「その年の5月くらいですかね。『会社を辞めてでもヨーロッパに行って、テストを受けてプロになりたい』と会社に相談したんです。本気でした。選手生命には限りがある。松下は大企業ですから辞めるリスクはあるかもしれないけど、サッカー選手としてチャレンジしたかったんです」
当時の日本サッカーはアマチュアスポーツの時代。数年後のプロ化がようやく検討され始めた頃だった。
86年にドイツから古河電気工業に復帰した奥寺康彦と、日産自動車の木村和司が最初のプロ契約を結んだが、国内のプロ選手は数えるほどだった。
永島が覚悟を伝えた2週間後、予想もしていなかった返答が届く。
「会社として全面的にサポートすると。おおいにチャレンジしたらいい。もしプロになれなかったら帰ってくればいいと。もう、びっくりしました。僕がサッカーに打ち込む姿を見て、これだけ熱心にやっている人間を会社として応援すべきだという判断に至ったそうで。当時のサッカー部顧問の方がPSVのオーナーであるフィリップス社の会長と知り合いで、練習参加を受け入れてくれると。話がトントン拍子で進んでいったんです」
松下電器から送り出されたのは、永島と同期の島田貴裕、コーチの3人だった。
当時、リーグ4連覇中だったPSV
当時のPSVはオランダリーグ4連覇中。87-88シーズンにはチャンピオンズカップを制し、欧州王者に輝いている。チームにはベルギー代表DFのエリック・ゲレツ、オランダ代表MFのジェラルド・ファネンブルク、ブラジル代表FWのロマーリオらが所属していた。
「そんな凄いチームに行けるのかと。そこで認められてプロになることしか考えてなかったですね」
永島と島田が迎え入れられたのはセカンドチームだった。昨日まで一緒に練習をしていた選手がトップチームに昇格したり、別のチームに移籍してトップリーグでプレーしたりする姿を目の当たりにして、永島はプロの世界を実感する。
「でもね、1カ月近く経っても、まったく試合に出してもらえなかった。モヤモヤしていたときにGMの方から食事に招かれたので、思いの丈を伝えたんです。『僕はここに自分を売り込みに来たんだ』と。そうしたらGMが驚いた表情で『それは知らなかった。サッカーを勉強しに来たと聞いていた』と。それでチャンスをもらえることになって」
セカンドチームはハーレムカップという大会に出場中で、準決勝に進出したところだった。永島は後半から準決勝のピッチに立ったうえに、ゴールまで決めてしまう。
それだけにとどまらない。翌週の決勝でPSVは2-0と勝利し、優勝を果たすのだが、なんと2点とも永島の右足によってもたらされたのである。
「大きなチャンスをうまく掴めたな、と興奮しましたねえ。そのあと、たくさんの記者に囲まれたのも覚えています。ただ、若い記者たちがオランダ語で質問してきたので、何も答えられなかったんですけどね(苦笑)」
この活躍を受け、トップチームの練習に参加する話が進む。このまま順調に事が運べば、34歳年下のガンバの後輩ではなく、永島こそがPSV初の日本人選手になっていただろう。
しかし、現実は甘くなかった。
「股関節に炎症があって、痛みで練習参加できなくなってしまって。のちにスポーツヘルニアだと分かったんですが。最初にしっかり意思表示できなかったことや、体のケアができていなかったことなど、自分の未熟さを痛感しました。プロというものを甘く見ていたというか」
帰国後に覚醒、JSL1部で15ゴール
ヨーロッパでプロとなる千載一遇のチャンスを逃したが、約1カ月間の挑戦が無に帰したわけではない。それどころか、永島は大きな財産を手にした。
本格的なストライカーへの変貌である。
松下電器加入後の6シーズンにおけるリーグ戦でのキャリアハイは7ゴールだったにもかかわらず、帰国後の89-90シーズンはJSL1部で15ゴールをマーク。日産自動車のレナトと最後まで得点王を争ったのだ。
「いいポジションを取ることが重要で、そのうえで選択肢を作る。そこに思い切りよく、迷いなく入って行くことが大事だと学びました。向こうのFWはとにかく点を取ることに集中しているんですよ。ストライカーにとって必要なものが整理されました」
ストライカーとして覚醒した永島は、さらにふたつの栄誉をつかみ取る。
ひとつは念願だった日本代表への招集である。
横山謙三監督から声がかかり、真っ赤な日本代表ユニホーム(当時は赤だったのだ! )に袖を通した永島は、90年7月に中国で開催された第1回ダイナスティカップ初戦の韓国戦でデビューを飾った。
同じ歳で、ドイツでプレーする韓国代表のエース、金鋳城(キム・ジュソン)をライバル視していた永島にとって、ようやく同じ舞台に立てた瞬間だったが、そこで日の丸の重みを思い知る。
「君が代を歌ったとき、両足が震えたんですよ。さらに開始2、3分かな、走っているにもかかわらず、まだ足が震えていた。あんな経験は後にも先にもあのときだけ。それから代表戦の前は、君が代を歌ったときに足が震えたらどう対処するか、イメージトレーニングをしたのを覚えています(笑)」
永島はダイナスティカップの3試合すべてで先発出場を飾った。そのうち2試合で2トップを組んだのは、読売クラブの武田修宏だった。
永島のポストワークに武田のスピードが組み合わされば、日本の攻撃は破壊力抜群だったはずだが、実際にはそうはならなかった。
「当時は互いの立ち位置や角度、タイミングなどを意識して、2トップの関係性で崩すなんていう発想がなかった。武田もまったく考えてなかったと思いますよ(苦笑)」
「松下電器はプロに参画するんでしょうか」
もうひとつの栄誉は、プロ契約である。
90年夏になると、将来のプロリーグ構想が現実味を帯び始め、各チームにプロ選手が続々と誕生していた。
永島のもとにもライバルチームから、プロ契約としてのオファーが届く。
「だから、会社に言いにいったんです。『松下電器はプロリーグに参画するんでしょうか。もし参画しないのであれば、僕はプロ選手になるという自分の夢を叶えたいので、移籍を認めてくれないでしょうか』と。今思えば本当に失礼なんですけれども(苦笑)。若気の至りで純粋な気持ちをぶつけたんです」
すると、会社はここでも素早い対応を見せ、永島を驚かせた。
「1週間も経たないうちに『プロリーグに参画する』と。まずは嘱託社員みたいな感じで、サッカーに専念するということになって。給料も上げてもらいました(笑)」
その後、松下電器サッカー部では永島を含む6選手がプロ契約となった。
一方、永島が加わった日本代表は、新時代を迎えようとしていた。ブラジルから帰化したラモス瑠偉と、ブラジル帰りの三浦知良(カズ)が日本代表に選出されたのである。
90年9月に北京で開催されたアジア競技大会ではカズとの2トップが期待された永島だったが、直前に行われた壮行試合で相手GKと接触して右の内側靭帯を損傷。アジア競技大会はピッチの外から眺めることになる。
「(日本サッカー界初の外国人コーチである)デットマール・クラマーさんが臨時コーチで来られていたんですけど、『日本のストライカーが怪我をしてしまった』と落胆されたのを覚えています。すごく調子が良かったから、試合に出られないのが歯痒かったですね」
だが、彫りが深く、端正な顔立ちの永島は、日本サッカー界に現れたスター選手として期待されていた。90年12月の『Number』本誌では、次世代スター対談として永島とカズの対談が組まれている。
今と違って当時のサッカーはマイナー競技だったから、巻頭を飾ったわけではない。ラグビー特集号の後ろのほうにひっそりと掲載されたその対談で、ふたりは「変えてみせるぞ日本サッカー」と題し、フィールド哲学を披露している。
『タイトルがかかった試合の経験を積まなければだめだと思いますよ。親善試合ばかりでは。いきなり大きな試合が初めてではやはり勝てない。』(永島) 『対外試合を常にやっていることですよ。韓国や中国なんかは、国をかけてやってきますからね。そういう気持ちが日本人には足りない。』(カズ) 永島はオランダ、カズはブラジルと、互いに海外のサッカーを知るふたりが、意気投合する様子が伝わってくる。
カズとの思い出について、永島が語る。
「いやあ、その対談は覚えてないですねえ。どんなこと言うてたんやろか(笑)。カズとは同部屋になることが多かったんですけど、なんかの合宿でカズが高熱を出したもんだから、看病したのは覚えてます(苦笑)」
ドーハの悲劇「W杯に行けたら自分にも…」
91年7月の日韓定期戦後に横山監督が退任し、92年5月にオランダ人のハンス・オフトが代表監督に就任すると、永島はしばらく代表から遠ざかった。しかし、93年のJリーグ開幕以降、ガンバのエースストライカーとしてゴールを量産すると、日本代表復帰の噂が囁かれるようになる。
「ガンバの関係者からも『代表候補に入っているそうだぞ』と言われたりしていましたからね」
だが、熱望していたW杯アジア最終予選への出場は叶わず、日本代表もアメリカ大陸に辿り着くことはできなかった。
「アメリカへは行ってほしかったですね。日本サッカーのためにも頑張ってほしかったし、W杯に行けたら、自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。そういう思いもありました。だから、“ドーハの悲劇”はとにかくショックでしたね」
同じ頃、永島自身もガンバで窮地を迎えていた。シーズン前半は9ゴールを奪い、代表スタッフが興味を示すほどだったにもかかわらず、夏場以降は3ゴール……。
ガンバを率いる釜本邦茂監督のもと、永島の出場機会はどんどん減っていた。 「選手からすると、監督が自分のことを使う気がないのはわかるんですよ。あ、俺、もう構想外なのかなと。そう感じましたね」
スポーツ紙や週刊誌では、エースと指揮官の確執が盛んに報じられた。